朝飯は近所のカフェのモーニング。スーツケースに売る本を詰めて出発。日傘をさしてスーツケースを転がすと両手が塞がる。歩くスピードも落ちるから億劫かもと思っていたけれど、案外苦もなく駅に着く。Suica の定期はまだ発行できるとのことで、券売機で買っておく。そのまま幕張に向かう道中は『新潮』を読んでいた。渾身の下ネタをいいます。ぽにょろん、ぽにょろん、ぷへー。
正午過ぎに本屋lighthouse につき、軒先に物販ブースを設営。新品の雨樋と、ありものの台や脚立を組み合わせて装置をつくる。水が側溝に流れていくように配置したり、落下してくる経路を予測してザルを板の先端にガムテープで固定してみたり、三十分程度の試行錯誤の末、流し素麺を開始する。糸状の小麦の束が水流で動いているのを箸で掴まえて食べるだけの何が楽しいのかと長年疑問だったのだけれど、これは楽しいものだ。水道から水を引くわけではなく、雨樋の上方に素麺を配置して、ケトルに汲んだ水を注ぎ込んで流す。だから流しそうめんを行うには素麺をセットして水を注ぐ人と、下流でそれを捉える人の二人が一組になる必要があり、その両者のやりとりもいいものだった。つゆや具材、スイカなどを差し入れてくださる方々がおり、かなり本格的に夏祭りの感がある。人がくるたびに素麺を流す。関口さんは最初、おそらく火にかけた鍋にてきとうに素麺をぶちこんでいたため、ものすごくべちゃっとした出来で、だから流れももだもだしていた。あとから指摘されてしっかりぐらぐらしてから乾麺を投入し、所定の時間茹でたらすぐさま水で締めるようになってからてきめんにおいしくなり、しかも流れもよくなったので笑ってしまう。しかし初めのころのもたつくリズムの記憶が邪魔をして、スムースに流れる素麺を捉えるのにてこずりもした。近所の人も、前を通りがかるたびに、流し素麺してる!と半ば呆れつつ、どこか嬉しそうに見物していく。大人が稚気を隠さず遊ぶさまというのは気分がいいものだよね、と自分も静かにはしゃぎながら頼もしく思う。本もそこそこ売れる。僕は関口さんに取り置いてもらっていた『非美学』、『思考する芸術』、『家の哲学』、『グールド魚類画帖』に加え、『『『百年の孤独』を代わりに読む』を代わりに読む』および『思考錯誤』の三号そして「代わりに書くのは何者か」と帯にあった『口述筆記する文学』、『踊る幽霊』、『フルトラッキング・プリンセサイザ』、『ガングロ族の最期』を買った。この一ヶ月弱の禁欲の反動がもろに出た格好。高揚した。夕方になり、三連休初日であることに気づかず、混雑に巻き込まれていた青木さんも来て、素麺を流す。
トークイベントには昼に一緒に素麺を流し合った人たちの多くがそのまま参加してくれて、本に囲まれていい感じだし、なんとなく昼から醸していた親密さがそのまま引き継がれるようで、いい状態でおしゃべりができた。あれこれと脱線しすぎて直後であっても何を話したか覚えていないのだけれど、それでも遅くまで残ってお喋りしてくれる参加者の方々がいらっしゃって、その方々から伝わる余熱から、面白いと思ってもらえたのかもな、と感じ取ることになる。「『プルーストを読む生活』を読む生活」をいままさに書き継いでくれているという方とお会いすることができて、その方はヒロアカの爆豪勝己がどうしても好きになれず頑なにフルネームか苗字呼び捨てで名指していたのが、『プルーストを読む生活』を読んでいるうちに自然とかっちゃん呼びになっていたのだという。なんといい話だろうか。本にして、出版してもらえてよかったなと改めて思う。ほかにも映画の話だとか、楽しくお喋りをしていると二十二時近くになっており、明日もイベント登壇する青木さんは疲れも溜まっていそうだったから打ち上げはせず、まっすぐ帰ることになる。僕も軽食を歩き食いしつつ家について、お風呂上がりに奥さんとドラッグストアに買い出し。明日の朝食などを買う。けっきょく小腹が空いて、ペペロンチーノを夜食に食べる。シードルも買っておいて、ひとりささやかに飲んで一日を仕舞う。昨日の日記も書いておらず、さすがに取り戻しておこうと二日分の日記を書き上げたら時刻は二十五時半。引っ越し準備期間からこの日記のリズムもずいぶんよれたから、ここから立て直していきたいところ。