2024.07.27

なぜ「ゴングロ・ルック」にしていたのか。

「怒ってたよね」 と万里さんが言うと、「怒ってたね」 とまなみさんも言った。

「大人に社会をコントロールされて、自分たちにはお金も権力もないからどうにもならなく て」

それが、なぜ「ゴングロ・ルック」を導いたのだろうか。質問を続ける中で、手に入れたのが、「ブリテリ」というキーワードだった。万里さんは、小学校六年生の時に、ブリテリの顔写真が載った「egg」の表紙を見て、そうすると決めたということだった。

「衝撃的だった。その時の感情は言語化しづらい。やばい、いいな、と思った。」

いったいどんな「感情」だったのだろう。

「言語化できない、願いのようなもの。」

いったいどんな「願い」なのだろう。もう少し踏み込みたかったが「言語化できない」というのに、言語化してほしいと望むのは強引なので、一旦、質問を飲み込んだ。

久保友香『ガングロ族の最期 ギャル文化の研究』(イースト・プレス) p.311-312

ビーチや渋谷に通うことで日々更新される微細なコードを察知できるものとそうでないものを区別することで、居住地や所得といった従来の階級差を温存していた七〇年代から九〇年代前半までのギャル文化に対し、九〇年代後半に至りブリテリらゴングロ三兄弟を嚆矢とするゴングロ・ルック──ガングロよりも強烈な黒さ──はその過剰性ゆえに「見ればわかる」オープンソース性を有していた。そこにあるのは「イケてる」基準が絶えず変動する差異のゲームではない。定まった型があり、その型を極め、「ツヨめ」を志向する態度である。

著者は出身地や来歴、本書でほのめかされる交友関係からして、明らかに都心の金持ちの出であり、東京外の、あるいは貧困層の怒りにはずいぶんと無頓着だ。その無頓着を取り繕うというような気負いがないことによって、証言をごろっとそのまま提示するようなところがあり、それはこの本にとって長所でもある。発話部分以外で鉤括弧を多用するはダサいと思う。

「予備校で、ギャルの見た目の私に、そうでない子が話しかけてくれた。そこから、見た目がギャルかどうかなどではなく、何かを一緒に目指して、ディスカッションできるような友選との、発展的な関係性に傾倒していった。」

高校生の頃、万里さんは「願い」を「言語」にできないとしていた。しかし「言語」にするようになったようだ。 万里さんが、高校生の頃、「願い」を「言語」にしなかったのは、「教養や思想」を必要とし、それらを持つことが「階層」の影響を受けるからだった。それなのに、高校を卒業したあと、「願い」を「言語」にするようになったのには、次のような理由があると考える。

一つには、万里さん自身が、大人になったことがあるだろう。大人になれば、「教養や思想」を持つことに、「階層」が影響しづらい。

もう一つに、インターネットが普及したこともあるのではないか。インターネットは「階層」によらず、「教養や思想」にアクセスする機会を広げた。インターネットが普及する前なら、「願い」を「言語」にできなかった「階層」でも、インターネットの普及後は、「願い」を「言語」にできるようになったのではないか。

「階層」の影響を受けずに、「願い」を共有する人とのつながりを得るために、「外見」を共有する必要はなくなったのではないか。

同書 p.327

インターネットの普及により、土地に根ざしたスターシステムは失効する。ビーチの日差しを転写した小麦肌から、キャバ嬢の美白へ。雑誌やブログでもあけすけな告白のような実話性がもてはやされ、そこに行けば有名になれるかもしれない、ではなく、ここからリアルを発信すれば誰かには届くという願いへの変容。これはつまり、ユーミンからあゆへの移行であると、『ケータイ小説的。』を思い出しながら考える。

続いて『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』を始める。おしゃべりが高度に競技=ゲーム化された「現代において、人の心を動かすしゃべりはいかに可能か?」

これは今晩の蛙坂さんと吉田悠軌のイベントに向けた個人的な準備体操のつもりでもあった。聞いた話の再話や聞き書きである実話怪談は、それじたい声と文字という両義性を有している。しゃべりと執筆の両者を行き来しつつも、そのどちらに比重を置くかで対照的なお二人による「教養としての怪談対談」は、言語表現に対するおのおのの美意識の対決でもあるはずで、楽しみだ。怪談プレイヤーのしゃべりの効果を左右する要素とは何か。スピード・バイブス・パンチラインではないような気がする。いや、じつはスピード・バイブス・パンチラインなのかもしれない。ラップと漫才を無節操に架橋する手つきはずいぶん野蛮で奔放で楽しそうで、かなり好みだった。

池袋コミュニティ・カレッジは初めて行く。保坂和志ゆかりの地? 『教養としての最恐怪談』刊行記念トークイベント「教養としての怪談対談」。蛙坂さんに『一生忘れない怖い話の語り方』を教えてもらったことから実話怪談に親しむようになった身からすると感慨深いものがある。お互いの対立点として仮置きされた「文芸」という語の定義が明確にはされず、そのため両者の違いがぼやけたままだった印象。怪談語りについても「話芸」といった用語法を避け、あくまで「しゃべり」であると規定する吉田悠軌にとって、「芸」つまり技巧とはなんなのか聞いてみたくなった。

技巧を凝らした文体はそれじたい「つくりもの」であるがゆえに実話性を損なうものだろうか。素人っぽさが本当らしさを担保するというのはつねにそうなのか。取材におけるコミュニケーションの産物の再話/再現を言語表現に落とし込むためには、技術が要請されるはずだ。具体的な一対一の関係によって生成し伝染していく恐怖を、いかに不特定多数へと伝えていくか。あるいは口語をいかに文字として成立させるか。そこにある型や工夫を「文芸」と言えなくもない。お二人とも竹書房怪談文庫での仕事をみるに、このあたり強く自覚的であると思うので、より突っ込んだ技術論が聞いてみたくなった。

北千住で飲んでいる奥さんと合流して、かるくカラオケして帰る。ちゃんと間違えずに新しい方の家に。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。