2024.07.30

「バズりたい」みたいな欲、ピンとこないままなのだけれど、「モテたい」という欲望の亜種なのだと考えれば、よくわからなさの質が見えてくるような気がする。あるいは「稼ぎたい」。具体的な個人との関係や、欲しいものを直接欲望するのではなく、それらを媒介するものの方を目的に据えてしまう。具体的な質を備えたものと違って、抽象化された量は無際限だから、多ければ多いほどよいような気になってくる。欲望に具体性がないから、とにかく可能性だけは余分に確保しておきたいというような感覚が育つ。けれども、そもそも欲望を具現化するプロセスに金がかかる世である。自分の欲望を見出す以前に広告され、際限ない可能性の方へと条件づけられたフェティッシュを解除し、このくらいが自分にはいいやと納得するためには、ある程度お金を使ってみて、生理的な限界を自覚する必要がある。貧しいままだと無限の可能性を漠然と欲してしまう。逆に稼ぎすぎたことはないからわからないけれど、遊ばせておく金があるというのはおそらく自身の日々の生活にはいらない金があるということで、そういう金はもはや金自身が金を産むだけであり、生身の個人の欲望に奉仕するような能力を欠いているとはいえるだろう。

十年ほど前は漫然とモテたいと言っていたけれど、じっさいのところモテたかったのだろうか。面倒くさがってあらゆる交際を狭めているような人間にとって、多数の人間からコミュニケーションを仕掛けられる事態というのは重荷でしかないのではないか。バズやモテではなく、友達が欲しかっただけなのだと最近は思い直している。稼ぎたいのではなく、お金の心配をしたくないだけなのだ。不足への恐れがいつしか過剰への嗜好へと倒錯しているようなことはままある。自分のちょうどよさというのがあり、それだけあれば充分だ。際限のないもの、見境のないものと思い込まされてきたものを適正なサイズまで縮減すること。有害な男性性みたいなものを解除するための実践というのは、そういうところから始まるような気がする。二十三区内の高級住宅街を歩くと、これまでは都内に住む貧乏人たちがそのすべてに押し入り略奪し再分配する日は来ることを夢見るほどにはらわたが煮えくり返ったものだが、数千万の借金を調達して郊外に家を買ってみると、そのような憤りはすっかり凪いでしまった。広すぎても立派すぎても、とうてい扱える気もしないし、くつろげそうにもない。自分には今の家がいちばんちょうどいい。そのような気分になっている。思えば、モテたいモテたいと漫然と滾っていたのだって、奥さんと穏やかに暮らすようになって萎んでいったのだった。足るを知る、しかしそのためには足りてみなければわからない。ここが難しい。多くの人は足りていないでいる。いよいよあれこれがちょうどよくなってきた今、僕はいつまで足りていなかった頃のヒリつきを切実なものとして思うことができるだろうか。そもそも、今だってすでに、ヒリついた渇望感のようなものを装うのは欺瞞でしかないというような気持ちになって久しいのだ。他人の不足感を代わりに言うことはできるのか。できるはずだ。もともと左翼運動や対抗文化の大半は、いいとこ育ちのボンボンのあたまでっかちな理想論から始まるのだし。僕はそもそも育ちからしてナイーブなおぼっちゃまに過ぎないからこそそういう文化に親しんでいたともいえる。卑下するでも萎縮するでも尊大になるでも増長するでもなく、宙ぶらりんの場でそのままでしらーっと理想を語ること。そう考えるとやることはそこまで変わらないような気がするし、ずっとそのような収まりの悪さを感じながら喋ってきたし書いてきたようにも思う。どうなんでしょう。知りませんね。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。