しつこい酷暑に「外に出たら楽しいことあるかも」という気分が削られていて、ようやく涼しくなってきた今も夏の疲れが残っていてそのままぐったりしてる。交互浴で整うなら寒暖差でも整えよ。弘前の天気予報を見ると最高気温25度、最低気温が11度とのことで、日中の気温はそこまで変わらない感じだけれど、夜から明け方の冷え込みがこちらと10度くらい違いそうだった。基本は半袖で、羽織るものを持っていけばいいだろうか。
疲労や精神力(精神力とは?)の乱れが肌荒れとして表面化するというのはよく聞く話だけれど、逆もまた然りなのだろうか。スキンケア生活はまだ三日とか四日とかなのだが、てきめんに肌の調子がよく、肌がしっとりぷるぷるしてくると気持ちもきゅるんっとしてくるようで、なんだかいま、謎に機嫌がいい。季節の変わり目で体がだるいのは相変わらずなのだけれど、それとはべつに、根拠なく自己愛みたいなのが湧き上がってくる。視界に入ってこないのに、それこそ肌感覚でわかる変化だからこそ毎秒鮮烈だ。特に目の周りがもっちりしているのがいいような気がする。あと頬っぺたを触るたびに、なんか柔らかくてかわいい……と思う。自分の体を触る対象として欲望するというのは新鮮だ。さいきんは歯磨きもちゃんとやるようになったし、髪型はうっすら似合わなさを予感しているところから動いてはいないけれど意識はし始めており、とにかく今は首から上だ。肌、髪、歯。そこに注力してみる。それらに不快がないというのは、かなり大事というか、ちゃんと世話をしてみると、これまでネグレクトしてきたそれらから発信される負の情報にけっこう削られていたのかもしれないと気がつく。この体がまず自明のものとしてあるのではなく、外界と接地する部分に事後的に体が成立する。外界への働きかけと、体の面倒を見ることは、両面であり、どちらもこの環世界の制作である。というか、文字でも鏡像でも、自己の内部にあると錯覚されがちなものをまず素材として外に切り出してみる。外部化された「私」を操作して、加工して、別様のありかたを模索する。「環境とのギャップに際した一つないし集合的な知覚行為体が、潜在的な諸可能性を背景としつつ、特定の形を選択的に実現していく過程」としての思考。肌をぷるぷるにすると、世界もうるうるになる。そういうことだ。
思考とは、外から捉えれば、環境とのギャップに際した一つないし集合的な知覚行為体が、潜在的な諸可能性を背景としつつ、特定の形を選択的に実現していく過程である。たとえば何も描かれていない画布は、描く人の前に広がる未規定のギャップ(=問い)であり、他でもありえた潜在的な諸可能性から、特定の布置が実現していく過程自体が思考である。
平倉圭『かたちは思考する』(東京大学出版会) p.5