きのうは深夜にかけてどんどん気圧が下がっていく。それで夜にはもういまにも気絶しそうだったし、何も書く気が起らなかった。放っておけば何か書いているという時期ではいまはなく、よいしょ、よいしょと書いている。だから力がわかないときはもう何も書けなかった。昼夜の献立だけを置いてみて、それで諦めて寝てしまった。それを今朝読み返して、これはこれで日記として雄弁かもなと思いそのまま出す。天気予報を見るときょうは暑そうだった。半袖で歩くとすーすー風が通る。夜に雨が降ったらしく地面からも冷気が立ち上がる。今夜も降るようだった。
停滞していた「『それでも家を買いました』を代わりに見る」を、見て書くという方法から逸脱しながら再開してみる。なにか重たいところを突破した手応えがあり、漫然とある書くことへの億劫さを乗り越える契機とできそうな気がしてきた。いつだって、書きかけのもの、仕掛かり中の計画によって見晴らしはひらけてくる。前に進むには、進まざるをえない用事が要る。まだ行けそうだ。
映画館に駆け込んで『Cloud』を観る。ほとんど満席で、最前列に座った。誰かが映画はいちばん前の席で見る。誰よりも速く映画の光を浴びたいからだと話していたのを読んだが、誰だったか。めちゃ面白かった。とにかく黒沢清はこう撮るとこのように見えてしまうというのをわかったうえで、複数のジャンルをあっさりと横断し、混ぜてしまう。脚本としては小学生男児がきゃっきゃとはしゃいでいるような、まじで厚みも重みもない空っぽさが突き抜けており、そのように話なんてあってもなくても映画は面白く撮れてしまうというあっけらかんとした態度が素晴らしい。内容がないからこそ、シーンごとに労働の所作がアクションめいたりホラーめいたりスリラーめいたり目まぐるしく見え方が変わる、その変わり身を楽しめる。どんどん話はどうでも良くなって、ただ目が喜んでいるか、内なる幼稚さがはしゃいでいるかだけが大事になってくる。これほどまでに周到に段取られた幼稚さの発露は、大人が大人の理屈で子供の興奮に奉仕している感じがして、その馬鹿らしさがすごくいい。満足。
池袋西口でDDTが無料興行をやっていて、映画館から早足で向かうと駅前からすでにマットを肉体が跳ねる大きな音が聞こえた。交差点を挟んだこちらがわからもリングが見えて、ちょうど上野のドロップキックが炸裂している。打点が高い、と惚れ惚れする。立ち見のスペースに辿り着く頃にはセミファイナルの試合が決着し、しばらくして最後の試合が始まる。みんな体が大きくて、声もでかい。野外でこれだけ通るというのはすごい。クリスはとても背が高くて、生で見るゴムパッチンは、勢いよくびゅるると収縮していく風を感じた。『Cloud』によって刺激されたガキっぽい部分がくすぐられ、なにかが起こるたびきゃっきゃと喜んでいた。意味なんてないよ。深読みしても仕方がない。見れば楽しい。それでいいじゃないか。
奥さんと安居酒屋で合流して、おたがいお昼を食べそびれていたのでばくばく食べる。成城石井で酒とつまみを買って家に帰って、ビアガーデンプロレスの映像を見ながらもうちょっと飲み、ああ楽しかった。