『それでも家を買いました』を見始めたのが七月の頭。いまは十月中旬である。テレビドラマの一クールが始まりそして終わるくらいの時間が経過しているが、僕はといえば、このドラマの二話を見始めることさえできていない。なぜなら「『それでも家を買いました』を代わりに見る」、つまりこの文字列は、ようやく第一話の前半に辿り着いたばかりであり、そこから続きを書けていないから。なぜこんなことになってしまったのか。原因はおそらく、この試みを始めるにあたり僕が採用した方法の重さにある。
かつて僕は『『ベイブ』論、あるいは「父」についての序論』という本を書いた。これは映画の『ベイブ』をひたすら繰り返し見て、風景をスケッチするように文字列へと転写することを試みた作である。これは、散文にとって描写とは何か、あるいは、ものを書く際に要請される視点とは何なのかについて、愚直に目と手を動かすことで、文字を使用しながらも非言語的に考えてみるという実験であった。そのように、今この地点からはコンパクトに振り返ることができる。
『それでも家を買いました』もまた、その延長線上で見ればいいのだと考えていた。しかし、それは、とても疲れる作業なのだ。なにせ僕は映像をスケッチするためにアプリの設定をいじって0.6倍速での観察を繰り返すのである。毎週のテレビドラマの一話が、二時間ドラマになってしまう。一度は等倍で素朴に見る、そのあと三回は繰り返す。そうして画面に注意しつつ手元で走り書きされた目の断片を、ひとつの散文の流れへと編成し直していく。このような文書作成の手順は、どうしたって一節ごとに十時間ちかくかかる。
しかも映像というのは、見れば見るほど見逃すものが増えてくるものだ。見えているものを書き写すという作業は、際限なく膨れ上がっていく不可能を前になるべく善処し、不充分さを痛感しながらばっさりと中断する行為である。際限のなさに戯れることよりも、さっぱりとした余白を残しつつ終わりにする。中断の判断にこそ体力を使う。
前回の文章を公開してから二週間後に新居への引越しが控えており、この試みは、早々に荷造りを終えてしまって読むものもなく、ただじりじりとその日を待つというのはしんどいというので気を紛らわすために気楽に開始してみたものであったはずだ。それなのに、思いの外このドラマは面白かった。それで、ちゃんと見なくてはいけないような気持ちがやって来た。そのせいで、引越し前の気忙しさでは注意して見ることはできまいと大事にとっておいてしまった。いただきもののおいしそうなお菓子を大事にとっておき過ぎて賞味期限を切らしてしまう、そのような愚かさを軽蔑していたはずなのに。新居に移ってからも、まあたらしい空間に生活を持ち込むための用事に追われたり、そもそも遠くなった職場での労働が混んできて平日はまとまった時間を捻出する元気が湧かなかったりで、この高負荷の制作を安定したリズムで続けていくことが無理になっていた。過去形で書いたが、今もまだ無理であろう。
すでに三度は見たはずの第一話の相貌は、すでに朧気だ。しかし手元にメモだけはある。また見返す元気はまだしばらくやってきそうにない。いい加減、第二話を見たい。あいまいな記憶と断片的な走り書きだけを頼りに、まずはざっくり書いてしまおう。無限に見尽くせないものを見尽くそうとすることを中断するには、いっそ見ないで書くことが必要になる局面もある。いまがそれなのかもしれない。とりあえず、いくしかない。
いってらっしゃい、いってらっしゃい、いってらっしゃい
第一話の後半は、朝の風景から始まる。社宅から吐き出される男たち、見送る女たち。この時代はまだ、専業主婦というものが、つまりは労働力の再生産を女たちが一手に担い、再生産のコスト負担を度外視した男たちが全面的な労働力を供出することで、一家を賄うだけの金銭を稼いでくるというモデルが成立していた。あるいは、成立しているという錯覚を多くの人たちが共有していた。労働によって損なわれた体力を、僕は食べて眠ることで再生産する。そのための家事労働は、共働きの奥さんとふたりで分け持つのだが、ふだん在宅である奥さんと較べ、出勤する側の負担が相対的に軽く済まされているという事実はつねにそこにある。気力もまた労働によって毀損される。僕はこれをお喋りや、読み書くことで養生する。そのために、柿内正午という読み書くためだけの人格をでっちあげ、日々の生活から半身だけはみ出したものとして動かしてもきた。このペルソナは、この三か月ほど喋ってばかりで書こうとしない。
新居に越してから、何かを作ろうという意欲が痩せた。家の居心地がとてもいいのだ。いまの生活に何の不満もないのである。けっきょく制作とは生活からの逃避、あるいは代替行為であり、日々この心身が満足であれば不要になるような、気力体力の余計な蕩尽にすぎなかったということだろうか。第二話の予告編で小西博之演じる斉藤は断言していた。「庶民には土地を買えない時代になるんです」。そして、僕じしん土地が買えない一生であろうなとなんとなく確信していた。その僕が家を買った。
土地を、生産手段を所有することのないプロレタリアートとしての怨望。おそらく、これまでの僕を読み、書くことに急き立ててきたものは、これである。書くことは、言語という共有資源を掠め取り行うものだ。生産手段から疎外された個人が最低限のスペースを確保することで開始できる制作。それが書くことである。
通勤する男たちの姿態にテロップがかぶさる。駅から徒歩5分。下車駅まで約32分。駅から会社徒歩3分。合計40分。
新居から職場まで、駅から徒歩20分。下車駅まで50分。駅から会社徒歩20分。合計90分。職場は相変わらずそこにあるのだが、僕にとって労働の現場はすでに片道90分の遠さによって捉えられている。この事務所の通信環境、窓、モニター、ホワイトボード、ペンの一本に至るまで、僕の所有するものはない。賃労働者は、他人の生産手段を用いて、他人のための何かを作る。
東京本社では樹脂応用の研究員であった。このたびセールスエンジニアとして赴任してきたのだ。よろしく頼むよ。そう紹介される、赴任してきた三上博史に、国生さゆりが熱い視線を送る。不穏である。いまだ第一話を突破できないどころか、そもそも書くことの意味を見失いかけているこの指の重たさが、より一層不穏を煽る。記憶の中の国生さゆりは、めちゃかわいい。しかし、記憶の中の田中美佐子の魅力の前にはなんでもない。田中美佐子に夢中であれば、三上博史に国生さゆりはいらないのだ。生活に満足しているとき、国生さゆりはなんでもない。しかしドラマというものは、なんでもなくなくなって、めちゃかわいい、というほうを取ってしまわなければ動き出さない。バランスを崩して、慌ててがんばって、失った平衡を取り戻す。ドラマとはそういうものだから。
まず、バランスの悪さを感じなければいけない。ここには平衡がない、あるいは動き続けなければそれが崩れてしまうと察知するからこそ人はものを考える。労働を片道90分の距離において相対化し、家で心配事もなく寛ぐ僕は、いま、ぴたっとした釣り合いの中心にいて、無口だ。
廊下に黄色い公衆電話が設置されている。オフィス内だから公衆ではないか、道端にある電話ボックスにあるやつは緑だが、被写体は黄色い電話機だ。黄色い受話器を持ち上げて、角田が電話をかけている。角田は誰だっけ。田中美佐子の元上司で、三上博史の現同僚だ。宇都宮まで行くから帰りは遅くなる、愛してるよ。愛、という語にぎょっとして、角田の横顔をうかがう三上博史。三上博史の役名を、三ヶ月経った今の僕は覚えていない。メモにも三上博史としか書いていない。主役の夫妻、三上博史と田中美佐子はつねに俳優の名で記されている。国生さゆりもそうだ。その区別の根拠はなんだったのか。
奥さんが寂しがりで参っちゃうよ。日に三回くらいはこうやって電話してるんだと角田は言ったのだったか。嫉妬深い、だったかもしれないし、心配性だったかもしれない。三上博史は角田に洋食屋へ連れて行かれてランチを食べる。これで550円。そう言って角田は誇らしい。550円、とても安いなと僕は思う。ついこのあいだまでワンコインで満腹できたと思っているけれど、学生時代は十年も前だ。だから順当に物価が変わっている。このドラマの頃、550円は果たして安かったのだろうか。ランチにおけるワンコインという区切りの感覚は、何十年もそのままだった可能性を思う。角田は、田中美佐子にそうしたように、洋食屋で遭遇した別の同僚の女性も下の名で呼ぶ。お尻に触り、サービスだと嘯く。三上博史の顔が曇る。
田中美佐子が社宅の自室に駆け込む。雨が降ってきて慌てて帰ってきたのだ。しかし、洗濯物は取り込まれていた。マスターキーを管理する親当番の桜田さんの仕業である。桜田さんは悪びれた様子もなく、これが社宅の決まり事ですから、と颯爽と出ていく。とはいえ勝手に上がり込むか。ふつう? 下着までしっかり取り込まれている。田中美佐子は眉間を皺くちゃにして言う。
やだあ!
桜田さんが牛耳る社宅の寄り合いでは、次々と当番が発案され、可決されていく。いまは門当番が定められそうだ。子どもたちが遊んでいる時間、門を見張る当番である。これに長田さんが反論する。なにかっていうと当番当番って、仕事を増やしているだけじゃないか。
アンケートをとって多数決で決めたのだから文句は言うなと桜田さん。ほかの社宅の妻たちも、ことを無用に荒げるなと迷惑そうな顔をする。長田さんを無視して、親当番は淡々と進行する。来月の庭掃除大会の件ですが……
自治会の後、田中美佐子は妻たちに誘われて一室でお茶をしている。みな口々に長田さんへの違和感を表明するのだが、桜田さんがいう賛成多数という発言の真偽は疑わしいと漏らす。不法侵入の記憶も生々しい田中美佐子は、社宅の息苦しさによって強張った表情筋で形だけの笑顔を維持している。
隣近所との付き合いは、社宅でなくともどこでも発生しうる。新居は戸建てで、町内会がある。僕はそれが不安だった。近所付き合い。そんなものが重苦しくつきまとってきたらどうしよう? マンションを避けたのは、マンションの管理組合の面倒臭さを嫌ったからでもある。しかし戸建てだって町内会はあるし、隣にも家はあるし、他人はどこにでもいる。この三ヶ月は、そうした不安が、現実的な面倒へと具体化していく過程でもあり、そうした面倒とはちょっとしたものであると判明し、気が抜けていく時期でもある。おそるおそる居てみて、だんだん安心していく。だいたいの心配事は杞憂であるが、長田さんの孤立は現実だ。
田中美佐子がお茶会に招かれている同時刻、長田さんは自室で一人。ヘッドホンを装着し、先ほどの不愉快な仕打ちに仏頂面である。その表情のままスピーカーからヘッドホンを引っこ抜き、部屋中に音楽を満たす。踊りだす!
踊ったぞ!と僕は嬉しい。
視点は三上博史に戻る。仕事は終わったらしい。もう帰るところだ。国生さゆり、この世界ではかなえさん、かなえさんが三上博史に頼み込む。会社の前に変な人がいるので、彼氏のフリして一緒に帰って欲しいと。きた、これは『『百年の孤独』を代わりに読む』で読んだシーンだぞ! 三上博史は、たしかに満更でもない顔をしていやがる。やめておけ!
ちょっと来いよ
案の定、若い男に絡まれる。できてんのか。まあまあ、君はなんだ。血の気の多い昭和の男たちはあっさり取っ組み合いのけんかになり、三上博史が一発殴る。てめえ、と反撃が始まりそうなタイミングで国生さゆりが悲鳴を上げ、人が来るので逃げ出す。
なんなのあれ?
一仕事終えたという風に三上博史が問う。ボーイフレンドです。あっさりと言ってのける。その声は、満員電車で帰るさい、三上博史の頭のなかでこだまする。
ボーイフレンドです、ありがとうございました
ただいま、と画面を左から右へと横切る三上博史。おかえり、お風呂、遅いから先入っちゃった。田中美佐子がさっぱりした様子で出てくる。うん、ああそうだ、やっぱりこの部屋で首吊りなんてなかったよ、会社で聞いたんだけどさ、脳卒中だって、風呂で倒れたんだってさ。屈託のない夫の発言が、気分よく使っていた浴槽に意味を憑依させる。ということは、田中美佐子はまだこの時点では風呂上がりではなく、まだ湯船に浸かっている可能性がある。浴室から、夫に声をかけたのかもしれない。確認したいが、やらない。次このドラマを見る時、それは第二話を見る時だ。
夕飯を食べる夫を眺める妻。おいしい?
うん
おいしかったら「おいしい」って言ってほしいな
だから「うん」って言ったじゃない
「うん」じゃなくて、「おいしい」ってちゃんと言って
そう言って、田中美佐子は社宅の住みづらさを訴える。ねえ、いっそ思い切って買っちゃうとか。
どうせ社宅には十年という上限がある。だけど十年目いっぱい居着く人なんてほとんどいない。
社宅をいつまでも出れないやつは落ちこぼれ社員のレッテルを貼られ、出世にも響くんだって。だからもういっそ早く買ってしまおうよ。三上博史はうーん、と濁す。
うまい、ありがと、五六年したら考えよう、ね
でも、それに幽霊だって、と不安がる妻を、三上博史はふざけて驚かす。そして窓のほうをなんとなしに見て、二人で今度はほんとうに驚いて後退った。ベランダから脚が伸びている! まるで首を吊っているかのような……
脚は長田さんのものだった。桜田さんの独裁を苦にして首を吊ったわけではない。鍵をなくして一個上の階の自室へベランダから入ろうとしていたところだったらしい。長田の夫は人事部で出張で飛び回っている。長田の夫は階下の新婚夫妻に詫びを入れ、妻を表から招き入れる。妻の横着になぜすぐ気が付かなかったのだか。メモが残っていないのでわからない。長田夫は気忙しい都会の生活にくたびれ、青森に転勤にならないかなあ、とぼやいている。嫌だ、絶対行かないわよ、長田さんは都会的な人だ。
幽霊の不安は拭えなかったけれど、ほら私こういう性格だから、ノイローゼにもならなかった
未来の田中美佐子が述懐する。でも、あのとき本気で家探し始めてたらってつくづく思うわよねえ。
おそらく放送時はコマーシャル明け。顎を捉えるように下から構えられたカメラに収められた小西博之演じる斉藤が滔々と捲し立てる。──国土庁が公表した土地公示価格、東京圏の住宅の変動率が21.5%、都にいたっては50.8%と過去最高の数字。田中角栄が日本列島改造論をぶち上げた直後の昭和48年。35.9%。去年、昭和61年度の首都圏分譲マンションの2700万、今年は3500、3600万。いま買わなくちゃダメなんです。今すぐに買わなくちゃ。
なぜか、斉藤夫妻と主役ふたりがファミレスでテーブルを囲んでいるのだ。のちに明かされるのだが、偶然出くわして同席したらしい。斉藤の物件談義は次回にまで続くだろう。バブル以後であるはずのこのドラマは、まだ泡が弾けた後を実感していない。じっさいまだ地価は上がり続けている。だからこそ、斉藤はこう言うだろう。「庶民には土地を買えない時代になるんです」。予告編でそう言っていた。その記憶はきちんとある。
会社のローンで1500万、住宅金融公庫で1500万、合わせて3000万。これを25年ローンで借りたとして、返済額は約5000、おれの生涯収入が2億3000万として、五分の一が住宅ローン……
ハッ、と乾いた笑いを漏らすのは自室で寛ぐ角田である。住宅ローンの利子に驚くのは見ている僕である。会社員の生涯年収の横ばいっぷりにもびっくりする。モノや土地だけ高くなって、給料の額面は変わらない。貧しさとは単独の数値ではなく、その相関によって現れる。
あーあ、一生社宅に住ませてくれないかな、と角田。
うちはのんびり探そう、と田中美佐子。三上博史は電車で本を片手で丸めて読んでいる。何を読んでいるのだろう。二段組だ。しっかり文字のあるものを読んでいる。通勤電車で毎朝本を読む僕はその姿になんとなく親しみを覚える。
会社の廊下で国生さゆりとすれ違う。カメラは廊下の流れと同じ向きに据えられ、国生さゆりは奥から、三上博史は手前からやってきて、交差する。国生さゆりはどんどんカメラに近づき、ピントも合ってくる。
未来の田中美佐子の声がする。会社でのこれが大変なことになってしまうのだけどね。
声に引っ張られるように、第一話の冒頭の、インタビューを受ける田中美佐子の語りにカメラは引き返してくる。いや、もうこの話はやめよう、と言いつつ、お茶目に目を輝かせてレンズを見据える。
まあ、話しても、いいんだけどね、また今度ね
カメラに向かって微笑みかける浩子。そうだ、田中美佐子は浩子なのだった。記憶を手繰り寄せながら、鑑賞者としてぐらつかない場をようやく見つけた心持ちだ。けれども、ドラマの中の生活はむしろ均衡を崩し始めている。開始当初よりも一クール分の未来にいる僕よりも、インタビューに応じる田中美佐子のほうがより遠くにある時間を振り返っている。振り返られるその道行きは、ドラマである以上穏やかなものではなさそうである。カメラが捉える波乱万丈は、どれほど今の僕にまで響いてくるものだろうか。むしろ、こちらはしっかり安定していないと、フィクショナルな運動を運動として知覚することが難しくなるのかもしれない。そうであれば、今の方がよりよく見れるだろう。
いつまで読んだり書いたりできるかわからないんですよ。頭がぼんやりしてきて、何を見てもはっきりした反応ができなくなるかもしれない。生活は忙しいから、不意に余計なことに向けるすべての注意がなくなったっておかしくないんだ。あらゆる制作がどうでもよくなる、そういう時期が来るんです。今すぐ書かなくちゃ。
私たちはのんびり探そう、と浩子は話してくれたけれど、僕はもう少し急いだ方がよさそうだ。のんびりしていたら、あっという間にすべて忘れてしまいそうだ。今はまだ思い出せる。浩子の名前を。あるいは、みずからの引越しを。たぶん。
