2024.10.30

昨日の日記に書いたような、余裕の確保をこそなにより重視するみたいなの、いわゆる「ゆとり」の思想だと気がつく。世代論なあ。

ゆとり教育についてはリアルタイムで糾弾されていたこともあり、当事者としては「自分はゆとりを持たされている」そして「ゆとりは悪いことである」という意識を素朴に植え付けられたように思う。前者は自分はパンパンに余裕ない状態で頑張るみたいなことはできない、イージーな環境でしかやっていけないという自認を形成し、後者はそんな自分への劣等感や罪悪感に結実する。

人格形成において、「ま、頑張んなくていっか」と自他に対する甘さのほうを肯定していく方向(悟り)と、「自分なんて」と自己否定を通じてしゃかりきに努力する方向(自己責任)がありえた。余裕を過度に礼賛するか、過剰に批判するか、その二極化がまずあり、そのあいだで自分なりの塩梅を探っていくというのがこれまでの生活で行ってきた試行錯誤である気がする。

「リア充」という俗語が蔓延った時期があったが、あれも「充実」というゆとりのない状態への志向の表れだったはずだ。

で、僕は根っこのところではつねづね余裕最高じゃんと思い続けていて、ゆとりがなくなってくるとそこに立ち返るというのを繰り返しているのかもしれない。このような態度は当然のこと、自明なことであると思い込んでいるけれど、そうでもないのかもしれない。世代論というのは、若い頃はただ鬱陶しいものだけれど、あるていどの加齢のあと、自分ではどうしようもない時代状況というものによって、個人の感性というのは大きく規定されているものだよなというのも実感できてくる。プチ鹿島『ヤラセと情熱』を読んでいて、そこに出てくるロス疑惑というのを僕はつい最近、速水健朗『1973年に生まれて』を読むまで知らなかった。そもそも川口浩探検隊も生まれる前に終わっている。僕にとって探検隊とは藤岡弘だ。今年になってプロレスを見始めた僕にとって、アントニオ猪木はもちろん、飯伏だって、知らん人だ。昔はどうだったかとか知らんよ、大事なのは今だろ、という新参者の高慢は、それこそ子供の頃に世代論に抱いた苛立ちと似たものだが、子供と違って、過去の重み、あるいはかつて見たものの印象を経年に即して修正していくというのがどれほど難しいかということもわかるようになってきている。しかし、後から入ってきたものにとって、それより前の文脈など、やはり知ったことではないだろうとも思う。あとから自分なりの歴史の厚みを得てしまってから、それがかつての鬱陶しい先人たちが背負ってきた荷物と同質のものであるとわかる。過去の世界観や、世代ごとの環世界への関心が湧き上がるのは、多くの人にとって、この時点においてなのではないだろうか。

新潟では高橋裕二郎が人気。ずるい介入をしても歓迎されちゃう雰囲気。過去の棚橋との試合も見て、よいなあと思う。裕二郎は今年から見ていても格好いいよ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。