郵便受けに文芸誌が届き出す。今月で最後だ。思った以上にたいへんな仕事だった。摂取するのは年に一作か二作でいい、それも数年前のものでも最近と感じるくらいだというのは、小説に限らず、映画も音楽もゲームもだいたいそうで、同時代性というのだろうか、リアルタイムで何かを追いかけるということにあまり興味がないのだと思う。評価が定まっていないものの価値を見出すということへの恐れとか面倒とかではない。そういうところにはむしろ面白みを感じるのだけれど、じっさいのところ、大枠では同じ状況を共有しているものたちの近作に抱く印象など、だいたい似たようなものになるので緊張感などありえず、ただ退屈な空気読みのゲームにしかなりようがない。そうしたゲームの狭苦しさの外側を思考しようとしても、そもそも読むものとの距離が近いせいでどうにも剥離の試みは不充分にならざるをえず、みっともなく密着してしまう。これは僕の技量と経験不足によるものでもあるだろうが、やはり現在にしか目を向けないという近視眼がもたらす弊害であると思う。
もっと離れたほうがいい。切ったほうがいい。『群像』の福尾匠の連載の最終回を読んで、『非美学』でも触れられていた疎らであることへの著者のスタンスがようやく腑に落ちた気がする。『非美学』の緊密なあまり抜けのないような感じと、密への警戒というのがうまく接続できていなかったのだけれど、この書き手はむしろ密接を求めてしまう性分だからこそ、ことさらに疎を謳うのかもしれない。どうも人は自分の性分を反省し、バランスを取るために逆のベクトルに力点をおいてものを考えるものらしい。僕はつねにぼーっとひましているから、ぎゅう詰めの緊張感に憧れたり、必要以上に持ち上げる傾向がある。時評をやってみてわかったことは、それでもやはり向いていないものは向いていないというか、ぴったり状況に寄り添うよりも上手く馴染めず浮いているほうが自分にはしっくりくるということだ。
来年は新刊でない本をたくさん読みたい。新しいものはJ-STAGEとかCiNiiで無料で読める論文とかの方が面白いと思う。ツイッターで流れてきた中澤高志「資本主義の危機としての少子化 生活の空間的組織化の困難化」がよかった。
