きょうの労働、気が乗らなすぎておれが小学生だったら仮病使って休んでた。大人だから夜に楽しみな飲みの予定を入れて出勤した。ついこのあいだまで避けていた日射が、嬉しい日向ぼっこチャンスになっている。口先や指先だけ動かしてる仕事への軽蔑を内面化したうえで、口先や指先しか動かしてないやつ。自分のことをそう思う。ひとりで本を作ることは、けっきょく日々の労働では動かせない手足を動かすものとしてあるはずだったのだけれど、いつしか口先や指先だけでするものへと似てきていないかと思われる。そもそも書くということだけみれば実際動いているのは指先くらいのものだ。大事なのは、作った本を持ってのこのことあちこちに出かけて行くことの方だった。本を作るのは、人に会いに行くための口実づくりに近い。いつだか青木さんが言っていたようなことを、さも自分で思いついたかのように改めて思い出す。会いに行った先では口先しか働いていないかもしれないけれど、おしゃべりというのは内容よりも、あなたと一緒に楽しい時間を過ごしたい、という試みなのだ。
労働は案外さっぱりとこなす。粉瘤除去で切った二針の傷のため抗生剤を毎食後に服んでいて、そういえば飲酒っていいんだっけと調べる。あまりよくはなさそうだったけれど、主に風邪ひいてるのに酒飲むなというような論拠だったので、かるくならよいことにした。早めに夕食を済ませて錠剤を流し込むことで、胃腸に酒が来るまでの間にすこしでも消化するように工夫する。文芸誌を読みながら待ち合わせの時間まで待って飲みに行く。初めて飲みにいく相手で、こちらからお誘いしたのだけれど、あまり人の話を聞く気はないのだなという態度で驚いてしまった。論破しにきたんだろ、と言われて、おしゃべりをしたかったんだけどなと残念に思うが応える気になれなかった。畳みかけられる話に混乱しつつ、軸足の所在を探るように観察していると、どうも自分で設定した絶対に負けないフィールドを敷いて、そこでしかやりたくないというようなことなのかもしれなかった。勝ち負けか。どうにもそのゲームの面白さにピンとこない。場に上げられてしまえば、たしかに負けたくないという気持ちは素朴に湧き上がるものだけれど、そもそも勝ってもなんでもないとも思っている。勝ち負けを競うよりも、気遣いの機能する余白を増やしていくような工夫を手探りするほうが好きだ。そういう態度さえも、逃げや欺瞞として論われるのかもしれないけれど。闘争としての会話。すこし付き合うがくたびれてしまう。というか、端的に格下とみなされ失礼をはたらかれたのだろう。
奥さんが待っていてくれたので、一緒に電車に乗って帰る。ライブ終わりにずいぶん待たされた、いや勝手に待ってたんだけど、だけどムカつく、と奥さんは不満げで、理不尽な難癖をつけてくる。普遍的に適用可能な論理はまったく通っていないけれど、ふたりのあいだで交流する感情の理路としてはよくわかる。ふだん僕が社会を憂える理屈をこねると、奥さんは、ここにいない人の話をしないでくれる?と怒る。おしゃべりはあくまで場や時間を共有する誰かと、その場限りの特異な何かを共作することなのだと二人でいると考える。ここにいない誰かでなく、あなたの話を聞きたいし、ここにいない誰かへの類型化ではなく、僕の話を聞いて欲しい。僕が真剣に世を憂い、あれこれと悲観するとき、いまは私と話してるんだけどと口を尖らせる奥さんの怒りのありさまが、内側から確かめられるような気がした。なるほど、こういう気持ちか。目の前の人が自分ではないどこかを見ているという認識を怒りにまで練り上げるには、そうとう相手への期待だとか、否が応でも今後も付き合っていくという必要だとかがないと面倒くさそうだな、と思い、隣で、なんでそんなにこにこしてるんだよ、こっちは感じ悪くしてるのに、と睨んでくる人のことを見て、どんどん上がっていく口角を感じながら、なんでだろうね、とへらへらした。