てきぱきとタスクをこなして気分爽快。お昼には奥さんと近所を散歩。公園の木々の紅葉がすすんでいて、視界が焦げ茶と赤に占められる。陽光に鋭さはなく、でも眩しい。犬が多い。
あす、猫がくる。あらゆる検索エンジン、SNSで「保護猫 トライアル」をひたすら検索し続けている。トライアル失敗の投稿を見ては胸を痛め、終了のち正式にお迎えしている投稿を見ると涙が滲むほど嬉しい。用意したケージや玩具をみて、気配を予期してしまい、いるのにいないというような、なんだか切ない気持ちになりさえする。待ち切れないような、来てしまったら取り返しがつかないような、取り返しがつけられても困ってしまうような、ぐちゃぐちゃな気持ちだ。結婚前夜のようだと思ってみるが、結婚前夜はもっと能天気にへらへらしていた気がする。『猫を愛でる近代』を読んで、猫への気持ちを相対化してみたところで、愛でてしまうのだからしかたがない。というか、読めば読むほど猫への思いは募るし、ついでにプルースト再読を始める機運も高まる。フォーブル・サン・ジェルマンだったか、すでに忘れているが、馴染みの地名が出てくるというのもあるけれど、猫が「愛でる」対象になるさいにはサロン文化が大きな役割を果たしたという話で、近代パリ社交界での「メリットmérite」という語の意味内容として、現在日本での印象と対照的に、実用性に馴染まない情緒的なよさというようなものが付与されていたという。元来鼠取りという実用性によって捉えられていた猫を、無用でありながら友愛を育める対象として解釈し直すことは、古典の教養や実務能力ではなく、会話の機微をつかまえる感情的能力にこそ価値を置く社交界のスタンスと合致していた。このサロンの軟弱なスノビズムこそ、いま僕が現代において発揮したいものに近似している。しゃらくさい閉鎖圏での、微細な洗練。わかりにくいジョーク、衒学的な冗談、ジャンルやジェンダーを軽薄に横断するモンクリフ『猫』のような本をこそ書いていきたいものだった。
夕食後、Switchで『クロックタワー』を買って遊ぶ。僕は途中で怖くなってほとんど奥さんにコントローラを任せた。二パターンのエンディングに辿り着いたところでおしまいにする。radikoで「夢遊猫SLEEP WALK」を聴く。「From Now On」も聴けた。これは、たぶんかなり好きな感じのアルバムがやってくるのではないか。新譜が楽しみでならない。『スブロサ』も、もう次の水曜には聴けてしまうのだ。そして再来週にはライブだ。BUCK-TICK のライブとトライアルの最終日が被っている。なんというか、これからの半月は情緒がどうにかなりそうだ。
寝る前のおやつに、シュトレンを開ける。クリスマスまで持つかしら。