卯ちり編『怪談に至るまで』を読む。各原稿の配置によってストーリーラインが浮かび上がる編集の妙がある。朱雀門による実話怪談と幽霊の切り離しに始まり、怪談とは思い出される過去の無意識の改変なのではないかと映画やテレビの記憶にまつわるエピソードによって示唆するふうらい、蛙坂の両名がこれを受ける。Vtuberに実存を察知する“不意の一瞬”を捉えようとする高田の試行は、ここまでの三編が相対化してきた「幽霊」の輪郭を書き換える。こうして怪異を認知の問題として脳へと追いやっていくのかと思いきや、しろうるりの管理マニュアルによって怪しい気配は再びマップ上へと配置されてしまう。宿屋の紀行文は、怪異を空間に再配置するしろうるりの原稿が挿入されることによってこそこの文集に居場所を得るのだが、その態度は幽霊の実存へと逆行することはせず、むしろ土地の歴史を騙る詐術としての物語論へと結論する。ollyはそのように怪談が物語性を強く帯びる事態=陰謀論への接近を警戒し、中央への重力を回避しつつ、スナップ写真のような採集の喜びへと実話怪談の楽しさを引き戻そうとする。私的なこわいものの採集の悦びは、若本のエピソードで極限まで誇張されるのだが、非日常への個人的な昂奮は、学校の怪談へと簒奪され、無節操に偏在し始めてしまう。どこにでもいるからどこにもいない。そんな存在を、ある固有の存在へと仮託しながら、その呼びかけを勝手に問いとして受け取り、献身へと向かう個人の営為を掬い取る鈴木の言語表現は、霊が不在であるからこそ外部へとひらけている。鈴木が自然と名指すものを卯ちりは風景と呼ぶ。極私的なエピソードを通じて、風景は記憶の中で再構築されるのだが、そのような記憶を所有しているのは思い出す人の心身ではなく、むしろ風景の方なのではないかという実感が語られるとき、怪異の所在は「私-脳」と「世界-自然-風景」のどちらかに局限できるものではないのだという、本書に通底する態度が明確に打ち出されて一冊が終わる。鮮やかだ。
猫の正式譲渡を希望する旨連絡を入れた。譲渡契約書に名前を記入する欄があるので、名を入れる。ルドン。ずいぶんと悩んだけれど、結局は猫に与えるならこの名だろうと二人の好きな画家の名をつけた。ただし、その人ではない。オディロンではなく息子のアリのつもりでつけた。戦場で消息を断ち、父親がその命を賭して各地に探し求めた息子の名。かれじしんは画家の死後ひょっこり生還して、長生きしたらしい。五歳だか六歳でようやく我が家の猫となったこの猫にも、ちゃっかりいつまでも元気でいてほしいものだ。書類は、奥さんに出がけに投函してもらう。
今晩は奥さんが飲み会のあと、友人宅に外泊するとのことで、夜はひとりだった。猫は膝で寝ている。きょうはずいぶんよく寝る。『1987』を観て、号泣。猫はいきなり顔をべちょべちょにして嗚咽をあげる人間をまんまるな黒目で見上げ、また微睡に引き返していく。夜は猫のいる書斎に布団を敷いて、猫と一緒に寝てみようかと企んでいたけれど、夜が更けるにつれて尻尾をぶわっと膨らませて、海老天を模した猫じゃらしと激しいプロレスごっこに興じ始めたから、さすがにこの空間では寝られたものではないかもしれない。なんにせよ、君が元気にしていると人間たちも嬉しい。
あすは昼ごろから名古屋。奥さんはマチネを見てから帰ってくる予定だから、少し長いお留守番だ。今晩はなるべく遊んでやりたいが、人間はけっこう眠たくなってきてしまった。おとなしく寝室に引っ込むか、猫との就寝というぼんやりした憧れを試してみるか、悩ましいところだ。内なる奥さんは、やめておけ、と言っている気がする。でもそれは幻想だから、じっさいのところはわからない。好きにしたら、と言うかもしれない。目の前の猫に勝手に人間の言葉を振り付ける傲慢さと、ここにいまいない人がいいそうなことを勝手にでっちあげる身勝手さは、似ている。
