ここ四、五作品明らかにだれていた寅さんだが、『口笛を吹く寅次郎』に来てまたフレッシュさを取り戻して、こりゃやはりおそろしいシリーズだと思わずにはいられない。
一日に一章、ちびちびと『日常的実践のポイエティーク』をやりながらのお供、昨日までのトゥピナンバのお次は『「暮し」のファシズム』だった。花森安治の提唱する「日常的実践」。もんぺや国防服のポイエティーク。
当初は、品川あたりの2020年の通勤風景の写真を対比させようという案もありました。黄色が「さわるな危険!」風ではなく、暮し感のある辛子色っぽいのもお気に入りです。
https://twitter.com/chikumasensho/status/1372091754506153984?s=21
筑摩選書の宣伝アカウントでのこの発言が意地悪で好きだった。僕は小さい時からずっと、だいたいこういう意地悪さを持った人に惹かれる。僕自身「生活」を冠する本を出しちゃったり、普段の実践の現場がこうした日記だったりと、ずいぶん「暮らし感」があるわけで、そういう奴が日常的実践だの、都市生活者の狡知だの、私生活のブリコラージュだのとド・セルトーを無邪気にありがたがることに危なさがあることには自覚的でなくちゃいけない。基本的に何でもかんでもひらがなに開きたがったり、句読点でリリカルな雰囲気を演出するような人たちはあんまり信用しないほうがいい。だって、じっさいに生活を「つくる」のは、ほかならぬ「じぶん」たちなのですから。
花森的な「暮らし」はしかし、やはり広告屋の「ことば」だ。拡声器を通じて「きかせる」ことを前提としたもの──この括弧で括ったひらがなの気持ち悪さ我ながら辟易としてきた──なのだ。そういう騒がしい言説における「暮らし」と、一会社員が片隅で書き散らす「生活」とではやはり性質が違うのだと僕は言いたい。祖母が『プルーストを読む生活』を読んでくれての感想が「自分の生活を全部見せているようで何も見せていない不思議な日記」というもので、僕はこれがとても嬉しかった。ホホホ座に泊まった時、松本さんが、自分の生活を切り売りするみたいで日記本を出すとかようやらんです、と話していたのを思い出す。日記の公開に対するよくある忌避感としてこういう生活の切り売りみたいないかがわしさが語られるが、しかし具体的な個々人を見ずマス=塊としての「大衆」に語りかけるような人たちだけにいいように「暮らし」のあり方を発信され、こちらはその受信に甘んじるような態度よりは、個々人が個々人としての領分で生活のあり方を表明するほうがマシだと僕は思っているし、個々人の発信はもちろん切ったり売ったりしても構わない部分だけを放出しているのであって、「暮らし感」のある全体主義におもねっているというよりは、むしろ生活の画一化に抗っているくらいの気概でいる。
ド・セルトーの消費者像は楽観的にすぎる、それでは結局は資本主義的倫理を屈託なく自明視することになってしまいかねない、とも言えるだろうが、しかし消費者とは決して広告に踊らされるだけの愚者ではない、むしろコピーライティングによっていくらでも個々人の生活様式や価値観というものを書き換えていけるのだという広告屋の傲慢に対し、ほとんどは右から左へと聞き流しながらも「ありがたいところだけ」しれっと掠め取っていくだけの狡知くらいあるというのがド・セルトーの消費者像なのではあるまいか。ここでは広告屋の側から消費者を見るか、消費者の側から広告屋を見るかというかなり大きな視座の設定の相違がある。問題なのはなぜだか誰もが経営者やマネージャーの視点から語りたがってしまうということで、それでは結局じっさいの生活の諸相はなんにも見えやしないというのが『日常的実践のポイエティーク』の骨子だろうし、僕が日記を書くことでやろうとしていることだったりもする。
