僕はいい意味でボディにコンシャスな日が続いているが、奥さんは負のボディコンシャスで要するにいつもきっかり夕方16時以降の具合が悪そうでかわいそうだ。僕は引き続きコンシャスで、いま足の指の間に外反母趾矯正のためのサポーターみたいなものをはめているのだけどこれが感触がまんま果汁グミで、果汁グミが食べたくなる。足の指でもわかる食感の再現度の高さ。なんなら匂いもちょっとグミっぽい気がしてきた。突然だが10年代後半から20年代初頭にかけてのなんか楽しそうなおじさんというのは、だいたいサウナに入って日本語ラップ聴きながらランニングしてる。そういう偏見が少なくとも僕の中にはありますが、そんなおじさんの背中を追いたいわけでもないのにサウナに覚醒してランニングシューズを買ってきょうは家の周りを走りましたよ。この語尾の「よ」はジェーン・スーの感じで読んでください。走りましたよ、ついに僕も。Moment Joon を聴きながらさ。もう立派な健康を気にし始めたおじさんの仲間入りです。僕はやはりブッキッシュなので、走るにしても本から入りたい。六年くらい前は『禅的ランニング』と『BORN TO RUN』だった。今回は『走る奴なんて馬鹿だと思ってた』という本を図書館で取り寄せている。あくまで村上春樹は読まないという強い意志を感じる。そんな意志はないが。
今日はド・セルトー、マルクス、さらにはエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ。『インディオの気まぐれな魂』は『日常的実践のポイエティーク』の副読本としてもしっくりくる。イエズス会士を苛立たせたトゥピナンバの「気まぐれ」は、他者を支配し所有するという発想の不在を示唆する。徹底的に個人主義的に見える彼らにとっての主体というのは、自律的な存在ではなく、常に他者によって変容を続ける流動体のようなものだ。そのように他者へと開かれ、そのありようを変え続けることを前提とした主体を前に、明確に外界と隔てられた個人というものを前提とし、そのような個人を大理石彫刻のように一意に変形しようとする宣教師の目論見は挫折する。トゥピナンバはすぐに他者を自らに引き入れる。それと同じだけの軽やかさで、同じ他者を拒絶することだってできる。そのように絶えず変容を続けていくことこそ、トゥピナンバにとっての主体の自由なのだ。
昨日は頭が痛く、今日はお腹が痛い奥さんは、それでも食欲はなくしていないようでよかった。