労働身体における身体的・精神的・感情的諸能力は、はじめから記号化された個別的労働時間の枠内で発揮・発現されることが条件づけられている。そこでは指揮・管理・監督・統制の主体としての労働身体と、その客体としての労働身体が同時に労働者の内面を構成することになる。このように労働者は、自分のなかに指揮者・監督者としての労働身体と、被指揮者・被監督者としての労働身体とからなる対極的・非対称的な二つのファクターを内面化するのであるが、その過程で多かれ少なかれ自己分裂に直面せざるをえない。いいかえれば、労働者は、二分された労働身体を統合すべき必要に迫られることになるのである。
ただし労働者自身の内面的な自己分裂の度合いが大きいほど、それを埋めようとするリアクションも強くなると考えられる。なぜなら、外部から刷り込まれた資本家的な労働身体をつねに意識するのは、労働者本人にとってもあまり愉快なことではないからである。それゆえ多くの場合、労働者は、両方の労働身体を統合する方式で、つまりそれらの対極性・非対称性を縮小する方式で、自己分裂の相対化を図るが、仮に両方の労働身体を統合することに失敗した場合、あるいは回避してしまう場合、身体的・精神的・感情的疲弊を余儀なくされることになる。
海大汎『労働者 主体と記号のあいだ』(以文社) p.290
電車で『労働者』読み終える。Reads によると七日から読み始めているから、こういう論文を集成したような本は一週間ちょっとで読んでいるということがわかる。電車に乗る日に読んでいて、毎日往復で二時間ちょっと、毎日は乗っていないけど、経堂やら、横浜やら、遠出も多かった。だから、まあ結局よくわかんないけど、十五時間くらいで読むのかな。三六〇ページくらいで、時速二十四ページ。だいたい均等な量の七つの章で成っていて、一日に一章くらいのペースだったから、往復に時間で五〇ページ。うん、計算は合うな。つまり、僕はこのくらいの速さで本が読めるということで、これがわかっていると、無駄にたくさんリュックに本を詰め込んで出先でくたびれるということを防ぐことができるかもしれない。ちなみに僕はこういう計算を年に一回は行い、毎回きちんと納得した上でキャパを超える量の本を持って歩くので、ここまでの一連の試算はまったくなんの影響もおよぼさないし、どうでもいいことだ。
幼稚園の頃から二十代まで、思えば僕は思い出してばかりいた。大学の友人に、そんなに過去ばかり振り返っていては、前に進めないよと言われ、なにかつよい反発を覚えつつもうまく返せなかった。とにかく僕は未来というものがあるとするならばそれは過去にしかないという確信がつねにあった。それは歴史に学ぶとかそういうことではなく、ただ言葉の通りの意味でそう信じている。過去は、未だ来ていない。だから行かなくてはいけない。前というならばそちらこそ前だ。その時空をいままさに生きようとするというのが思い出すことで、あの頃、あの場所で、と生々しく思い出しながら、それらを言葉にしていくことは、今を黙って生きていくことと同じかそれ以上に切迫した実感がある。
三十代になってほとんど思い出さなくなっている。それは前へ前へと押し出されているから、ではおそらくない。三十代は、今として充満している。いつか思い出されるためにある今を、鮮明に思い出すかのようにして過ごしている。生まれたてから二十代までの、目まぐるしく生理感覚や思考のリズムが変わり、そのたびに遠ざかる近過去を必死に思い出し手繰り寄せていた時期とはまた違う形で、いつかきっとこの瞬間を思い出すだろうという濃厚な気配と共に、膝で丸まる猫の寝息、肉球のひんやりとした膨らみ、ソファでぐったり横たわる奥さんの小鼻や、眉毛と眉毛の間のかわいさ、そういう目の前のものを、痛切に懐かしむようにして感受している。だからこの数年はあまり何も思い出さない。だからほとんどすべてを忘れてしまったような気がする。じっさい、忘れているのだろう。そういう記憶は、意思して召喚できるものでもなく、敷石を踏んだときなどに無意思的にドドドと押し寄せてくるものだ。今はおそらく、今通り過ぎていく瞬間瞬間を思い出すのに忙しく、そういう契機がありうる余白がないのだろう。ようやく落ち着いてきた気もするから、またすぐに思い出してばかりの状態に戻っていきそうな気もするし、奥さんと結婚した頃、つまり二十代の半ばからすでに僕はなにも思い出せなくなっていたような覚えもぼんやりあるから、やっぱり何ひとつ思い出せないままなのかもしれない。日記は果たして何かを覚えていられるだろうか。覚えていられるとしたら、行為の備忘録ではなく、やはりこういうことをこそ書いておかなければいけなような気がする。