2025.03.15

電車で『労働者』読み終える。Reads によると七日から読み始めているから、こういう論文を集成したような本は一週間ちょっとで読んでいるということがわかる。電車に乗る日に読んでいて、毎日往復で二時間ちょっと、毎日は乗っていないけど、経堂やら、横浜やら、遠出も多かった。だから、まあ結局よくわかんないけど、十五時間くらいで読むのかな。三六〇ページくらいで、時速二十四ページ。だいたい均等な量の七つの章で成っていて、一日に一章くらいのペースだったから、往復に時間で五〇ページ。うん、計算は合うな。つまり、僕はこのくらいの速さで本が読めるということで、これがわかっていると、無駄にたくさんリュックに本を詰め込んで出先でくたびれるということを防ぐことができるかもしれない。ちなみに僕はこういう計算を年に一回は行い、毎回きちんと納得した上でキャパを超える量の本を持って歩くので、ここまでの一連の試算はまったくなんの影響もおよぼさないし、どうでもいいことだ。

幼稚園の頃から二十代まで、思えば僕は思い出してばかりいた。大学の友人に、そんなに過去ばかり振り返っていては、前に進めないよと言われ、なにかつよい反発を覚えつつもうまく返せなかった。とにかく僕は未来というものがあるとするならばそれは過去にしかないという確信がつねにあった。それは歴史に学ぶとかそういうことではなく、ただ言葉の通りの意味でそう信じている。過去は、未だ来ていない。だから行かなくてはいけない。前というならばそちらこそ前だ。その時空をいままさに生きようとするというのが思い出すことで、あの頃、あの場所で、と生々しく思い出しながら、それらを言葉にしていくことは、今を黙って生きていくことと同じかそれ以上に切迫した実感がある。

三十代になってほとんど思い出さなくなっている。それは前へ前へと押し出されているから、ではおそらくない。三十代は、今として充満している。いつか思い出されるためにある今を、鮮明に思い出すかのようにして過ごしている。生まれたてから二十代までの、目まぐるしく生理感覚や思考のリズムが変わり、そのたびに遠ざかる近過去を必死に思い出し手繰り寄せていた時期とはまた違う形で、いつかきっとこの瞬間を思い出すだろうという濃厚な気配と共に、膝で丸まる猫の寝息、肉球のひんやりとした膨らみ、ソファでぐったり横たわる奥さんの小鼻や、眉毛と眉毛の間のかわいさ、そういう目の前のものを、痛切に懐かしむようにして感受している。だからこの数年はあまり何も思い出さない。だからほとんどすべてを忘れてしまったような気がする。じっさい、忘れているのだろう。そういう記憶は、意思して召喚できるものでもなく、敷石を踏んだときなどに無意思的にドドドと押し寄せてくるものだ。今はおそらく、今通り過ぎていく瞬間瞬間を思い出すのに忙しく、そういう契機がありうる余白がないのだろう。ようやく落ち着いてきた気もするから、またすぐに思い出してばかりの状態に戻っていきそうな気もするし、奥さんと結婚した頃、つまり二十代の半ばからすでに僕はなにも思い出せなくなっていたような覚えもぼんやりあるから、やっぱり何ひとつ思い出せないままなのかもしれない。日記は果たして何かを覚えていられるだろうか。覚えていられるとしたら、行為の備忘録ではなく、やはりこういうことをこそ書いておかなければいけなような気がする。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。