朝、コーヒーメーカーのセットだけしてまた朝食の準備を忘れた。コーヒーだけ飲んで猫を膝に乗せ、本を読む。『二〇世紀の思想・文学・芸術』はきょうは映画の章で、ゴダールの『映画史』も出てくる。セルゲイ・ロズニツァの映画を観たいな、と思う。でも、まずはゴダール、トリュフォー、ヒッチコックのラインに集中したい気もする。なんかいまは体系だって基礎的な部分をちゃんと踏まえるというのをやりたいようだった。本来であれば大学一年生とかでやっておくものを、恥ずかしげもなくこのタイミングで素朴にやる。時間のやりくりが難しいから、けっこうな時間がかかるだろう。まあ気長にやる。若くないから効率も頭も悪いのだが、あるかもわからない効能とか結果とかを期待しないぶん、無益な焦燥感とも離れているから気楽なものだ。やりたいことをやればいい。ただ読むし、ただ見る。ただ享楽する。きのうのデートの多幸感も、ぼんやりと日向ぼっこしながら順番待ちし、のんびりとハンバーガーに齧りつく、そういう効率の合理性から離れた暇の蕩尽にこそ宿っていた。無駄に、意味もなく、ただそのときを楽しく過ごす。
この数日の日記は、自分可愛いでしょ感が露骨で辟易とする向きもあるかもしれない。『プルーストを読む生活』のころ特にこのぶりっこ感は顕著であったが、加齢とともにややなりを潜めていた。しかし、たぶん僕は性根として人間全般を可愛いものと信じているし、その信の根拠が、人間の一個体である僕がとても可愛らしいから、というところに置かれているのだから仕方がない。サンプル一の脆弱な根拠であるが、じっさいは一ではなく二だ。巻き込んでしまうが奥さんもそうだからだ。僕や奥さんは、お互いが可愛くないとき、とくに相手の可愛らしさを損ねるような可愛くなさを指して「ブス」と呼ぶが、それはおそらくこのような世界観への背信であるからなのだ。だから僕は自分可愛さがにこにこと滲み出ているものが好きだし、そういうものを喜べない「ブス」性を警戒している。しかし、自分可愛さという一言だけで括ると、他責に偏る自己憐憫のようなルサンチマンをも含まれてしまうような気もするが、これもまた「ブス」の一種なのであって、このへんは可愛い/「ブス」という雑な二項で把握することはできないはずでもある。自己肯定感という言葉はすっかり凶悪な抑圧の徴のようになってきている気もするけれど、要はこの語彙の形成過程は、おのおの自他の可愛さが尊重され、お互いに喜び合えると嬉しいよねという話であったはずだ。あらゆるものに可愛らしいところを見出し、慈しみたい、そういう祈りのような心性は、万人にあるだろうと素朴に思っているところがある。人は、人を愛玩したいのだ。この愛玩の欲望は、自他へと等しく投射される。
奥さんは引き続き賃労働で泡吹いていて、やっぱり労働ってムカつくな、と思う。奥さんのようなウルトラミラクルチャーミング——頂上的な奇跡の可愛らしさ——を損ねるというのは、あまりに罪深い。経済合理性とか、計画の効率的遂行のためのマネジメントとか、そういうのは可愛くないどころか、人の可愛さを毀損するので悪です。生産物よりも副産物としての「ブス」を大量にアウトプットするような労働が多すぎる。とか思っていたら奥さんは労働においても丁寧に人間関係やっていて、すごすぎる。尊敬しちゃう。格好いい。でも無理しないでね。
退勤後、東中野の雑談という、クラフトビールバーとポッドキャストスタジオを兼ねたお店でシャーク鮫さんのおしゃべりを聴きに行く。スタジオと酒場はちゃんと分けられていて、おいしいビールを飲みながら心の砂地♯リスナーと楽しくお喋りできるのが嬉しい予想外で、静かに一人で酔っ払ってとぼとぼ帰る気しかしてなかったけれど、色々と愉快なはじめましてができてよかった。念のためかけていたアラームで我に返って終電で帰る。楽しい夜だったな。
