2025.03.20

晴れてる! 心身は露骨に空模様と連動する。あとは労働日か否かに。けさは休みで、しかも晴れているからうきうきで、寝起きからはしゃいだ。

午前中はカハタレの稽古日誌の草稿を愉快に読んだり、『二〇世紀の思想・文学・芸術』と『Dr. スランプ』を読んだり、洗濯機を回している間にスーパーに行って、干し終えてからお茶を飲んだりする。

午後は贅沢なハンバーガーを食べに二人で自転車を漕いでお出かけ。お店の前のベンチで順番を待つあいだ、奥さんは、私も電動自転車にすればよかったかもしれない、どうしても十万円の価格差に怯んで普通のを買ってしまったけれど、あなたと出かけるたびに恨めしい思いをするのは不合理だ、と話していた。電動を避けた当初の理屈として、それではたまの運動の機会を損失するのではないかというのがあったのだけれど、電動自転車も漕ぐわけで、ただすべての道を平坦にする、坂のアップダウンによる負荷の増減を均してくれるのが電動アシストであり、漕がなくても進むわけではない。勝手に進むのであればそれは原付だ。漕げさえすれば体は動くのであり、であればたまの運動という要件は満たせるのでは、と思い至った奥さんは、いよいよ電動にしなかったことを悔やみ、こうして目先の出費を惜しむことで結果的にリターンも少ない、わたしは投機ができない、とぼやいていて、僕はむやみやたらと先行投資する癖に回収に頓着しないから、たぶんこのような思慮深い人と一緒でなかったら今ごろ破綻していただろうなとありがたく思う。店は大きな団地の住民たちのために構えられた各種商店にぐるりと囲まれた広場の一画にある。団地へと伸びる通路は広場を貫いてそのまま公園へと通じてもいる。公園の方ではブランコをほぼ九十度の角度にまで振る子らがおり、広場のベンチには将棋を指したり見物したりする爺さんたちがいる。こんなベタな風景があるのか、と驚く。

お待ちかねのハンバーガーはおいしく、ちょっと高いかも、と思ったけれど、最近のものの高さを思えばこんなものかもしれない。どうしたってきれいに食べることのできない代物に手や口の周りをべたべたにしながら、おいしいね、と見つめ合い、にこっと笑う。すると、じわじわ嬉しさが湧き上がってくる。ねえ、なんだかこうして二人でのんびり過ごすのはずいぶん久しぶりだねえ、と奥さんが言う。猫が来てから、たしかにつねに二人と一匹だったり、この前の記念日ディナーも、労働を無理くり片づけてからの合流で慌ただしかった。こうして、いちにちなんの気兼ねもなくデートするというのはたしかにあまりなかった。暇であることこそ至上の価値であるというのに、なんということだろうか。せっかくだからもうすこしこうしていよう、とそのまま自転車を走らせてショッピングモールまで行く。意味もなく眼鏡を見たり、ファンシーショップを面白がったり、本屋でビジネス書の棚を眺めながら奥さんの労働の愚痴を訊き、『ウー・ウェンの鍋 スープ』、『ミニマル料理』およびその『「和」』をレジへ持って行く。また眼鏡見て、今は眼鏡への欲望がないことを確認し、フードコートで甘くて冷たいものを飲みながら、レシピ本を広げて今晩の献立を相談する。『ミニマル料理「和」』の鶏と春菊の昆布鍋に決めて、東丸の薄口醤油を探し回り、なかった。

帰り道の一部は奥さんと自転車を交換してみる。電動アシストのよさを試してもらうため。けれども、どちらかというと、お互いの体格に合った自転車がよい、という手前の部分の確認のほうが強烈だった。小さくても疲れるし、大きくても危ない。

帰宅して新日本プロレス。フィンレーよかった! 鍋はかなりおいしくできて、二人で感心する。『メサイア』を見ていたけれど、DDTの展開がかなり気がかりで途中からそちらのアーカイブ観戦に切り替えた。セミファイナルまで見届けて、眠くなる。メインはまた明日。MAOちゃんは、別れ話がスマートだ。サウナのほかのメンバーは、聞き分けのよさが悲しくて、たぶん一人になった後でしくしく泣くのだと思う。かわいそかわいい。新日にはないたおやかな気遣い。いやいや、昨日のフィンレーの前日記者会見のスピーチは、気遣いにあふれたものだったじゃないか。でもたおやかではないか。しとやかではないもんな。強く気品がある。優美か。優美にもしとやかというニュアンスがあるともされるようだけれど。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。