眠くて眠くて仕方がない。起きている時間以外は寝ていた。
ひとはなにかをするためには二人にならなければなりません。あるいは……自分ひとりしかいない場合は、自分が二重人間(ルビ:ドゥーブル)になるような状況に身をおかなければなりません……祖国に対する裏切り者になることによってであれ、二重国籍者になることによってであれ、自分が二重人間になるような状況に身をおかなければなりません。レーニンはその思想のすべてを、ロシアの外にいたときに形成しました。ついでロシアに帰って多くの仕事をかかえ、そのなかば近くについては誤りをおかしたりしたあと、この世を去りました。でも彼の創造の偉大な時期は、彼がスイスに亡命していたときなのです。当時、ロシアの民衆は飢饉に苦しんでいました。レーニンはと言えば、チューリッヒの近くの山中をサイクリングしたりしていました。でも彼は、そうした状態のなかでこそ……同時に二つの場所に身をおいていたときにこそ、自分の最高の思索をもつことができたのです。
ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール映画史(全)』奥村昭夫訳(ちくま学芸文庫) p.110
怪奇! 会社員を騙り別の場所にいがちな二重人間カキナイは実在した!
じっさい、僕が調子よく何かをかける時、一方に悲惨や理不尽な労働があり、もう一方に満たされて安心し切った生活があるというような二重性があることが多い。プルーストを読んでいた頃、労働においてはまじで余裕なかったもんな。いまは労働に感じる理不尽さよりも、僕自身の傍若無人さのほうが圧倒的に優っていて、あんまり二重じゃない気がする。
文字はあまり読めず、ゴダールと徹底討議される二〇世紀をちらっとやりつつ、『Dr. スランプ』を読み進めていた。とうとう結婚した。みどり先生は、ちゃんとセンベイのこと好きそうなのがいいし、よりいっそう溌剌とおちゃらけた部分が前面に出てきて、とてもかわいい。人は憧れられる対象としてあるとき、個人は個人として尊重されておらず、そこにいないものの代替物になってしまう。生活をともにするというのは一緒にダサくなるということであり、偶像へと押し込められないその人ほんらいのダサさがのびのびと発揮される。そのダサさはとてもチャーミングだ。
夜、かんさつバンドのインスタライブがあって、それを聞きながら洗濯物を干し、腹筋ローラーをし、日記を書く。なにかを誰かに伝えるというとき、その伝達のツールとして言語表現を選択するとして、そこにはしゃべり言葉と書き言葉というざっくりふたつの形式があり、どちらのほうがより上手く使えるのかというのは個体差も大きい。しゃべるとうまく表せないという思いから書くことへと傾く人がいるというのは考えられる事で、誰もが僕のように頼まれてもいないのにずっとしゃべってるしずっと書いているというわけではない。書くことを選んでいる人を、しゃべるのも書くのも楽しいじゃん、という気持ちで軽々に巻き込むのはよくないのかもしれない、とも考えつつ、やっぱりこのお二人のしゃべっているさまは素敵だからしゃべってもらいたいな、とやっぱり思う。考える、よりも、思う、のほうが強い。そういう磁場として日記がある。というか、たぶん、考えなしに思いついたことべらべらやってしまうから、しゃべるのも書くのもへらへらやってしまえるのかもしれない。いや、これはわからない、思ってもいないことを書いている。