さいきん作業中はやたらとポッドキャストを聞いているのだけれど、だいたいはカルチャーや政治についての時事を扱うものが多い。そういうものの語り口として、物事の裏側の事情——ほとんどは人間関係かお金の話——で端的に整理するようなものが目立つ。というか、わかりやすいから面白く聞ける。とはいえ、面白いだけだからつまらなくもある。
芸能ニュースやビジネス情報から陰謀論まで、なんでもかんでも人間関係とお金の話に還元しちゃうタイプの言説を眺めていると、考え込んでしまう。楽屋裏への欲望を、何をどのように見せたいのか、という作り手の方法論の水準に留めるような語りを復権させることは果たして可能だろうか。ポイエティーク——もののつくりかたへの好奇心は、こんなすごいものどうやって作っているんだ?という興奮であり、魔術を脱魔術化するのではなく、素朴に魔法の使い方を知りたがっているものでいい。
実はあの関係者との折衝が、とか、予算の都合で、とか、そういう話は制作過程で現れる外部要因として語られる分には面白いのだけれど、それがすべてのようになってしまうと、これほどつまらないことはない。妥協は必然ではあるが、制作の本質ではないからだ。ものの成立に関わる身も蓋もない経済や暴力への、適度な無関心というか、距離を取り戻したほうがいいんじゃないかと最近は考えている。他人の付き合いや懐事情に嘴を挟むのは、端的に下品であるという感性を忘れないこと。
服の着こなしや、脱ぎ方、見せ方によって演出されるエロさに喜ぶことと、無自覚な隙につけこんで下衆な妄執を対象に押し付けることとを区別する必要がある。主体性は常に見せる側にある。現状では見せられている側で不当に肥大化する一方の万能感を、実際的な不能にまで委縮させる、そのための手法が必要なのだと思う。
制作の現場、閉鎖空間内で起こりうる不正への対処は、べつで必要だ。しかしそれはそれとして、作品だけに興味を持つというふつうのことをふつうに保持したい。こうした態度がふつうでなくなっているのは、作品がそれ自体で自立する強度を持つということを信じられなくなってきているという事態を点検するところから始めなければいけない。見るものを圧倒させる。否応なく幻惑する。そういう技術を、みみっちい人心掌握術や、安っぽい窃視への奉仕への対抗として編み出したいのだ。
夜、稽古。早めに終えて稲垣さんの送別会。東池袋の輝くおいしい中華。