リュックには『アンチ・ジオポリティクス』。大きさと重さからすれば家を出る前の朝に読む本だったけれど、なんとなく外で動きながら読むのがよいだろうと思って無理して持ってきたが、無理だったかもしれない。重い。花見以来カメラも入れっぱなしになっていて、このほんの数百グラムの差でいきなりずっしりくるのだから重たさの感覚というのは繊細なようなどんぶり勘定のような。
(…)目下の情動の地政学が求めるのは、地図学的に安定した地理記述をすること、そしてそれらしい一貫性のある「真理」を確実に創出することよりも、「今ここでダイレクトに人々の情動をモジュレートする」(酒井+松本2006:77)ことなのだ。本当にイラクで大量破壊兵器が製造されているのか、本当にフセインは「テロリスト」とつながりを有していたのか、本当に「対テロ戦争」が米国に、「国際社会」に安全をもたらすものなのか。それは基準ではない。だから情動の地政学は、混乱含みで、矛盾含みとなりがちであるし、物事が真実なのかどうか、合法なのか違法なのかという基準とは別の位相に移っていく。問題は、存在論的な恐怖や不安、さらには「屈辱」の感情が、情動へと訴えかける言説によって、「満足感」によって「溜飲を下げられる」(酒井+松本2006:81)ことなのだ。
けれども、それはあくまでも一時的な「満足感」にとどまらざるを得ないだろう。不安と恐怖、そして人間の生の脆さそのものは消去されえないからだ。「満足感」は、その度につくりだされねばならない。何度も繰り返されねばならない。「興奮」と「満足」の回路が無限に開かれる。その循環は加速し、その刺激は強化されていく。これは解放なき興奮であり、人間の欲望そのものを粉砕しかねないものでさえある(ベラルディ 2009)。
また、溜飲を下げる言説、身体の反応を自動作用としてモジュレートする言説は、極めて断定的なものであり、いっそう単純化される。そのために、人種主義や男らしさに浸透されつくした「文明の衝突」のような二項対立の地政学が、かつてよりも苛烈に、暴力的に前景化してくることにもなる。「世界じゅうのあらゆる国家は、今や決断を迫られている。われわれの側につくか、テロリストの側につくか、二つに一つだ」(Bush 2001)。そして、他者との接触、身体的・情動的接触自体を恐れ、自動作用のごとく攻撃的反応しか示すことのできない「神経症市民」(Isin 2004)は、おのれの身体の(不可能な)絶対的安全を求める。実際、神経症市民はまるで「弱者」のほうが優越しており、「強者」が「弱者」に不当に包囲されているかのように転倒的に想像してしまう。そこから、不安や恐怖の動因として対象化された存在への予防的暴力を発動させ、力強く支持することで、いまいちど帝国的主体であることを上演し確認する(酒井 2004: Gilroy 2004a)。
北川眞也『アンチ・ジオポリティクス』(青土社) p.46-47
政治が理性の現場であるという建前すら取り繕われなくなり、ただ情動だけが動員の要因とされる政治において、じっさいの生活基盤の強固さは透明化され、感情の強弱だけが問題化される。そのとき、ほんらいは抑圧する側であるにもかかわらず、〈「弱者」のほうが優越しており、「強者」が「弱者」に不当に包囲されているかのように転倒的に想像してしまう〉。その結果、より強いものが弱いものを恐怖し、打ちのめすような社会へと流れ込んでいく。易きに流れるのが世の理なのだというのは、このようなクソな現状を追認するものわかりのよさに過ぎない。しかし、とはいえ、易きに流れるよなあ。過半数が難しくて面倒なことをわざわざやる、それも強制されることなく自発的に、というのはありえるのだろうか。
機械書房の百冊の『会社員の哲学』が完売したらしい。二年ほど、大事に売ってもらえて嬉しい。今週発売の『随風』はすでに百冊以上売れているとのことで、他の店でもどんどこ売れているのならすごいことだ。ぜひ批評欄も注目されてほしい。
亀有のニトリで奥さんと待ち合わせ。夕方早めに着いたので、栄眞堂書店やSKWATをひやかす。栄眞堂書店は面白かったからまたゆっくり見たい。SKWATは洋書に値札がついてなくて、売る気はなさそうだったので白けた。奥さんと合流して、ニトリでソファを試し、よさそうだったので買うことにする。そのほかあれこれ見て、一階の洋菓子屋でお菓子を食べて、ダイソーも見て、あれこれ買う。
近所の駅まで移動して、よさげなお店に入る。夫婦で切り盛りしており、あまり客層に恵まれないのかちょっと余裕がなさそうだったけれど、料理はとてもおいしい。見送りの際には愛想が出てきて、人見知りなのかもしれない。それで客商売はたいへんそうだ。お酒も飲んでごきげんに帰宅。眠くて眠くて仕方がないけどお風呂には入る。死なずにあがることができた。それからすこんと眠る。
