桜を散らす寒さと雨に、毎年冗談じゃないほど心身をやられる。電車に乗れないまま午後になってしまった。生来がさつで怠け者で、突き詰めてものを考える能力に乏しいから、鬱のようなものとは無縁と思ってきているが、春だけは毎年もういよいよかもしれないと思い詰めがちだ。
この一週間くらいずっと上の歯茎の左側に大きめの口内炎ができていて、唇をべろっとめくると白くぶくぶくとした膨らみが痛々しい。きのうようやくパッチを貼って、多少ましなような気もするがまだまだ健在で、家を出る前に新たに貼り直した。食べるたび痛いから、日々の喜びがずいぶん減退しているのも憂鬱の種だ。
猫の鳴き声の幻聴が聞こえ、そのたび早く帰ってあげないと、寂しくさせてしまってごめん、と思うが、寂しいのも帰りたいのも僕のほうだろう。いや、人間がいないと調子を崩すのはじっさいそうらしいから、まるきり妄想というわけでもないのが厄介なのだけれど。舐めこわしてハゲたお腹が元に戻るまで、けっこうな時間がかかる。癖になってしまっているようだ。
懸案の事案はあっけなく解消し、こんな些事であれば悩まずさっさと出社してしまえばよかったのだ、十年以上も労苦に従事していながらまだそんなにうぶなのかと思わずにはいられなかったが、もとから調子が悪かったからこそつまらない気がかりが重く圧しかかっていたわけで、順序が逆なのだ。気がかりがあったから気が塞いでいたのではなく、気分が落ちていたから小さな用事が重大な面倒ごとになっていた。しかしこのような転倒は役にも立って、重く考えていたことが軽めに片付いたことで、まるでこちらの気分もすこし晴れていいような錯覚を覚える。それですこしはましな心持ちで日中を過ごした。
体面を保ったままさりげなくお断りされるのかもな、と思っていたお誘いが、実現しそうなのも嬉しい。べつにお断りされそうな何かがあるわけでもなく、基本的に僕は他人にはうっすら嫌われているだろうという予断から始まり、だいたいはそれがいつまでも全面的には訂正されないまま残るというだけのことなのだが。これはこうして文字面だけ見ると卑屈そうなのだけれど、当人としてはそうでもなく、まあそういうもの、というような素朴な世界観としてある。僕自身は基本ひとが好きなので、だいたいみんな好きだなと思っているからこそ、他人も同様であろうと構えているとやばいだろうという逆向きの抑制が効いているのだと思う。入社して一年目とかまでわりと基本好きという行動原理でいたのだけれど、いろいろな意地の悪さや明確な嫌悪を向けられて、びっくりして、気をつけるようになったというのだから、ずいぶんと遅い。そういうの、みんな——みんなとは?——思春期とかに実装を済ませるのではないか。
退勤後はカハタレの稽古。稲垣さんが東京から離れてしまったので、稽古日誌を僕が書くことになる。不安だ。稽古の詳細はそちらに書くので割愛。帰宅して待ちくたびれた猫をさらに待たせて日誌を書き、日記を書く。奥さんが帰ってきて猫に構う。