2025.04.17

ちょっと寝坊したので、起き抜けすぐさまキネマ旬報シアターに出かける。きょうは映画を観る日と決めていた。昨日も『教皇選挙』を観てしまったけれど、あれは突発的な前哨戦みたいなもので、きょうのほうが前から予定していたことだった。スクリーンタイムのダイエットのおかげで、本も楽しく読めるようになってきているし、映画館に出かけようという意欲も久々に湧いてきている。

午前、『フォー・ドーターズ』を観る。アラブ諸国のなかで最も早く民主化したチュニジアで撮られた映画。原題はオルファの娘たち。イスラム国(IS)に加入するため失踪した長女と次女の母、オルファが、残された三女エヤと四女テイシールのふたりと共に、その来し方をカメラの前で演じ直していく。失踪したふたりの娘の役に俳優が配置され、母娘と交わりながら彼女たちの生を再現していくほか、オルファが演じるには動揺が大きいと見込まれる踏み込んだシーンについては、オルファ役の俳優——おそらく現地ではけっこう有名な大御所——が代わりに演じることになる。ただし、三女エヤと四女テイシールのふたりは、どれほど辛いシーンであっても、つねに自分自身を演じ続ける。けらけらと、明るい笑いを絶やさないまま。勇敢に。この演技の場には、おそらくスタッフも含め、ほとんど男性がオミットされている。オルファの夫、恋人、警察官など、彼女たちの生を通り過ぎていく男たちは、たったひとりの男優によって兼ねられる。そしてこれもまた映像からの推測であるが、この男優一人だけが、女性たちの親密圏で交わされる取り決めや秘密の開示の外側にいる。だからこそ、あるシーンで妹たちが悍ましい過去を吐露する際、誰よりも動揺し、このようなあけすけな撮影がなされることへの違和と怒りを表明するのも彼なのだ。じっさいパンフレットの監督インタビューによれば、彼はカメラの前で告白させることについての倫理的自問が製作陣には欠けているのではないか、という疑義から演技を中断したことが示唆されている。この懐疑と義憤はまっとうなものである。ただ、この映画においては、そのように不正を察知して撮影の中断を求めることができるという態度そのものが、きわめて男性的な身振りでもあるという事実である。彼は、まっとうさにおいて、正しく葛藤し、カメラを止めることを要請することができた。それでもなおカメラは回り続ける。これまで、カメラを構えた男たちがそうしてきたように。彼の発する否は聞き届けられない。撮影は続く。その暴力性は、しかし、この映画においては女性たちの側に属している。カメラは妹たちに語ることを促し、妹たちはそれに強かに応えてみせる。ようやく声を持つことができる、これまでだってずっと持っていたのに、男たちのカメラはそれを取り上げなかったのだとばかりに。

終盤になって、姉妹のイスラム国への加入が報じられるじっさいのニュース映像が挿入されるのだが、ここで大きなショックを受けた。当時のオルフェはニュースの取材だけでなく、討論番組などにも積極的に参加していたようなのだが、そのような報道のカメラの前でのオルフェは、打ちひしがれ憤る「母」の紋切り型を演じきっているのだ。パンフレットの監督インタビューにもあったが——そう、スマホを見なくなると検索も億劫だからパンフレットを買うようになる——ニュース映像の彼女は、過激派組織に娘を奪われた哀れな母、というイメージをみずから徹底的に纏い、演じている。だからオルフェという個人の実存がまったく見えてこない。家父長制のもと形成された「母」という役を、ジャーナリストたちのカメラは暗黙のうちに求めているし、それをオルフェもわかっているからだ。ここまで、女性たちが主体的に作り上げてきた再演との、演技の質の違いの大きさこそが、なによりも心を抉られた。

カメラの前で演じられる「母」をこそ相対化しないことには、親から子へと受け継がれていく「呪い」もまた断ち切られることはない。報道カメラによって意識しないままに「母」を再上演し、そのように演じさせられていたオルフェは、主体的に「オルフェ」を演じることで、自身と「母」とのあいだに距離を穿ち、冷めた目で観察し、解釈しなおすことができる。演技とは、この体で再現する行為と、主体としての個人とを切断する技術でもある。じっさい、映画の序盤にこんなシーンがある。これからあなたが演じる私のエピソードはすべてほんとうに起こったことだ、その迫真性に飲み込まれそうになったらどうするのか、そう問いかけるオルフェに対し、オルフェ役を担う俳優はこう応えるのだ。俳優というのは、役と自分自身とを切り離しておく技術を学んでいるのだ、と。俳優ではないオルフェの演技は、そうではなかった。娘を失った「母」の演技は、オルフェを「オルフェ」として変容させていた。そしてそれは、オルフェがカメラの前に立つずっと前から、それこそ父親を亡くし、ずかずかと家に入り込もうとする男たちから母を守ろうと必死に振る舞う少女時代から、「オルフェ」の演技は始まっていた。映画の役へと「オルフェ」を追いやることは、オルフェから「母」である「オルフェ」を切り離す、俳優の技術を取得する道のりでもある。

対照的に、はじめから「私の体は私のものだ」と胸を張ることができる聡明な娘たちは、演技することへの違和感を素直に表明する。姉たちを演じる俳優が発声練習を始めると、まじで? 勘弁してよ、と苦笑する。演じることへの嘘臭さ、恥ずかしさを鋭敏に察知する。それでも、あるシーンで憎しみを吐露するさい、まさにこれこそ唯一の男優が中止を求めたシーンなのだが、彼が立ち去った後、毅然とした態度を固辞したまま、もうこの痛みについてはカウンセラー相手に何度も演じた、彼に伝えて、これはただの演技だ、もうなんでもないことだって、彼も俳優ならわかるはず、そう嘯く。演技によって主体的に我を客体化することを、母よりも先に察知している娘たちは、だからこそカメラの前で演じるという磁場を活かして、長年の屈託を母に素朴に提示することさえしてみせる。そう、わたしってとびきりセクシーなんだけど、知ってた?

シングルマザーという家長として、家父長制の影が色濃くさした「母」の役を捨てきれないオルフェは、演じていくうちに「母」の自明性を疑い始める。去っていった娘を演じる俳優のひとりに、こんな母親でも、あなただったら私を母として選ぶだろうかと問いかける。俳優は、監督や他の娘たちと共にぽつりと、しかしはっきりと否を突きつける。誰も親を選べない、親を選べる人なんかいない、そう言いながら。観ている最中は、当事者である母に、何をここまで酷な仕打ちを、とも思ったけれど、パンフレットによると失踪当時の報道が加熱するなか、オルフェに対して強いバッシングがあったと知り、すこし考えを改めた。「母」の再生産を強いるような誹謗中傷と、「母」の負の連鎖をきっぱりと断ち切る意思を共有しようとする拒絶とでは、意味合いがまったく違うから。

こうして感想を述べようと記述していくとどうにも重たくなるが、印象に残るのは何よりも妹たちのぱっと咲くような、あるいは清々しく豪快な、大きな口で笑うその顔と声の眩さだ。ひとつの出来事が、全実存を染め抜くことなどない。人はその瞬間ごとに、愛嬌もあり、意地悪で、知的な、チャーミングな一個人としてあらゆる側面をもっている。そんななかから、なによりも笑顔を多く切り出そうとする意志こそが、この映画の真ん中に据えられている。

二本目は『ノー・アザー・ランド』。これはキネマ旬報シアターの会員証特典で一本無料で観れるというので、連続して同じスクリーンでかかるし、なんか話題のやつなんだよね、くらいの気持ちで即興的に観ることを決めた。一本目は、演技と回想という関心であり、チュニジアのことはほとんど何も知らない。長期独裁政権化ではヒジャブの着用が禁じられていた。だから、黒いヴェールはむしろ革命後に吹き上がる、押さえ込まれていた反体制を気分を反映するファッションとして受容されていったということさえ未知で、驚きだった。元来リベラルで穏健なイスラームの伝統が、民主化に伴う混乱期に断絶し、過激派の思想が思春期の反抗心の受け皿として機能してしまう。そのような背景知識は映画を見ながら推し測る他なかった。対して『ノー・アザー・ランド』は、イスラエルによるパレスチナ・ヨルダン川西岸に対して半世紀ちかくふるわれている暴力についての知識は多少あり、だからこそスクリーンに映し出される家を破壊され、土地を追われる身を切る痛みにだけ集中させられるようだった。カメラの置かれる位置、切り取られる構図や光があまりに完璧で、最後までドキュメンタリーを模した劇映画なのではないかと思ってしまった。エンドロールでドキュメンタリーなのか、と遅すぎる衝撃を受け、パンフレットを買って確かめるまでまだ半信半疑だった。あの映像やあのショットを、じっさいの暴力の現場で捉えたのだ、ということに、なにより驚く。絶望的状況の中で、極限の緊張を強いられる環境下で、映画としてのクオリティを諦めないことの凄みに、あとから絶句する。フェイクドキュメンタリーやモキュメンタリーの、リアリティを演出する作為的な粗雑さや画面のチープさが、ドキュメンタリーである『ノー・アザー・ランド』には微塵もない。映し出されるものの真正性とかの前に、映画として面白いことをきわめて真剣に考え抜かれた作品だと感じた。面白すぎるから、僕のように事前知識もぼんやりとしか入れないでふらっと観るものにはフィクションであるとさえ感じてしまう。それは、被写体であるふたりの男性に向けられたカメラが、あまりに不可視のものとして機能しているからでもある。イスラエルの破壊行為を撮影するパレスチナの活動家バーセルのカメラには被写体から向け返される視線が必ずある。けれども、バーセルと、イスラエル人ジャーナリストのユヴァルとが、不安定な日常の束の間をともに過ごすシーンは、あまりに自然だ。そこには二人の他だれもいないように思える。この二人を撮影するカメラの存在を、二人はまったく意識していないとしか感じられない瞬間がいくつもあり、だからこそこの二人を俳優の演じる役であると誤認した。明示的に演技の生成する現場を撮影した『フォー・ドーターズ』以上に、ドキュメンタリーとフィクションの弁別不可能性を痛感する映画だった。あと、『フォー・ドーターズ』では文字通り「全員似たようなもの」として扱われていた男性が、ひとりひとり真剣に生きる一個人として映っていたな、とも思った。そもそも生活を蹂躙されるという、もっとも許しがたい暴力を前に、老いも若きも、性別の区別もなにもないということでもある。作品の制作過程を知った上で観たいが、もう一度観る気力があるだろうか。

疲れ果て、帰宅。トイレや階段、床、カーペットを掃除する。亀も洗う。じぶんの生活をちゃんとやる気持ちになっていた。二階の窓べりで奥さんが水耕栽培しているパクチーは花をつけて元気よく伸びに伸びていて、換気していたら風で倒れてたいへんだった。慌てて拭く。いつの間にかルドンが猫が入ってきちゃいけないエリアに入ってきている。ひええ、と追いかける。どかす。家が綺麗になり、買い物に行って、カツオの柵が安かったので夕食は刺身。イカも半額だったからフライにする。取れてしまった鍋蓋の取手を買ってきたのだけれど、ネジを閉めた途端にばきっと壊れてしまう。水もこぼす。よれよれだ。そりゃそうか。日記の量も大変なことになる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。