カント『プロレゴメナ』の読書メモ。
カントは悟性と理性を切り分けて考える。
悟性というのは、英訳ではunderstanding だという。ひとが世界を把握するための形式を司る、といっていいと思う。たぶん。感覚器官によって受容される現象——人は物自体を認識することはできない。だからといって物自体の実在を疑うのはナンセンスだ。どんなものかは厳密には知りようのない物自体に触発されて、ひとの内側で表現される物のありかたを物自体とは区別して現象という——は、それだけだと未整理で未分化でよくわからんものである。悟性は、このわけわからんものを、概念をもとに理屈に合うように整理する能力である。分けて、形式にあてはめて、理解する。ここで理解のために適用される形式のことをカテゴリーという。
悟性は、感覚器官の感受を前提とする。つまり、なんらかの具体的な経験があってはじめて仕事がある。これに対して理性は、経験を必ずしも必要としない理念に携わる。この世界での経験を形式化しようとがんばる悟性のありかたは内在的だ。内在的というのは、ある世界の内側に住んでるみたいな感じ。それに対して、理性はそれなんか理念と違くね、みたいな物申しを、外野からやいのやいの言えるかのように錯覚しがちだ。このように、経験の外側からなんかいう態度を超越的という。しかし、理性を働かせる人もまたこの世界に内在しているわけだから、ほんとうのところ超越なんかない。理性は主観的なものであるのに、すぐに調子に乗って客観性があると錯覚してしまうお調子者なのだ。
悟性はカテゴリーを、理性は理念をつくりだす。カントにとっては後者の行き過ぎを抑制するという側面が強く前面に出ているけれど、現代社会においてはむしろ、行為への偏重が進行し——つまり悟性による理性の圧倒があり——理念の弱体化こそが問題になっているような気がする。がんばって行為してるやつが偉いんだから、外野は口出すなや、理念とかご立派なこと言ってたら現場まわらんだろ。そういう気分が蔓延している気がしてるということだ。
いやいや、しかし理念こそが暴走しているのではないか、というのは、アメリカの加速主義や陰謀論をみていても感じるところだろう。これはこれで正しいと思う。しかしこれもまた、大多数が共有可能な理念の不在が招いた事態と言えるのではないか。
理性はみずからの主観性を、万能に適用可能な客観性と取り違える。カントはそれを指摘したようなのだが、それはそうだとして、現代は、その取り違えの質こそが問われているともいえる。誰もがとりあえず信を置くような理念が弱まった結果、理性の暴投はだいたい粗悪な陰謀論に行きつく。なぜそれらが粗悪かというと、超越的な理念へと行きつかず、どこまでいっても行為-結果の世俗的(内在的)世界観から脱することはないからだ。これはなんというか、やはり理性への信頼自体が低下して、悟性の圧倒という事態のなかでの理性の暴走という感じがある。
だからといって、超越しちゃえばいいじゃんともいえない。やはり、倫理のようなものが普遍的な理念として信じられるような世の中のほうがずいぶんマシだと思うのだけれど、僕の読んでいるカントはまだ理性批判の端緒にあるので、実践理性の話はまだまだ先だ。
夕食を済ませ、お風呂に入ってから甘いものが食べたくなりよれよれの部屋着でコンビニまで行った。ときめきがなかったので足を伸ばしてファミレスでしょっぱいのとしゅわしゅわのワインまで飲んじゃう。それからデザートを食べて、ちょっとそこまでのつもりでデートが始まるのは楽しい。日中は暑いくらいだったけれどさすがにすこし肌寒い。なんだか初夏の匂いがする、と奥さんは言った。