オング『声の文化と文字の文化』と併読してることで、カントが試みる悟性と理性の切り分けの意義を考えやすくなっている気がする。悟性とは経験的で文脈依存的な声の文化であり、理性とは超越的で独我論的性格をもつ文字の文化である、ということにしてみる。『プロレゴメナ』第四一節にはこうある。訳は岩波版。
理念すなわち純粋理性概念とカテゴリーすなわち純粋悟性概念とを種類、起源および使用に関してそれぞれまったく異なる認識として区別することは、これらのア・プリオリな認識のすべてを含むところの体系を志すような学の基礎を確立するために極めて重要な仕事であり、かかる分離を怠ると形而上学は絶対に不可能であるか、或いはせいぜい筋の通らない不様な試論でしかないであろう。それはあたかも取扱う建築資材の性質も知らなければ、またこれらの資材がどのような目的に使われるのかも知らずに、これを用いて厚紙細工さながらの脆弱な建物を組立てるようなものである。「純粋理性批判」は、この区別を最初に明らかにしたというささやかな業績だけでも、それによって形而上学に関する我々の概念を解明し、またこの学の領域における研究を正しく指導するために寄与したことは、純粋理性に課せられた超越的課題を解決するためにこれまで費された一切の空しい努力にまさるものがある。形而上学においては、昔からかかる不毛の努力がなされてきたのであるが、その場合にこの学の研究者たちは、自分が悟性の領域とはまったく異なる領域にあることを嘗て思いみることをしなかった。それだから悟性概念と理性概念とを、あたかも同一種類のものであるかのように思い誤って、この二つの名を一筆に書き下したのである。
悟性と理性を一括りに「理性」と思いなすことは、一次的な声の文化と文字の文化(およびその圏域内における二次的な声の文化)を、言葉の文化として同一視して混同することで、両者の質的差異を見逃すことと似ている。というか、おそらくカントが格闘している純粋理性とは、文字の文化そのものというような気がする。
本屋lighthouseで買うつもりの『スロー・ルッキング』の書影や惹句に触れてから、そうだよな、スローって大事だよな、と不思議と腑に落ちて、メモは紙に鉛筆に持ち替え、スマホの表示を白黒にしてスクリーンタイムを二時間以内に抑えて、日々をゆっくりやるようになっている。読む前から読んでいるというか、すでにこの本の内容から乖離している気もする。
たぶんほかにもきっかけはいくつかあって、ずいぶん前に読んだジジェニー・オデル『何もしない』が遅効性の毒のようにじわじわ作用しているとかもありうる。Bluesky で工藤郁子さんが固定表示にしている投稿からリンクされている記事で、以下の文章が引用されていた。リンク先のエッセイの引用は「Dense Discovery」というニュースレターからの孫引きで、ニュースレター319号のエピグラフに用いられている。大元はJustin Welshという起業家のツイート。
Modern luxury is the ability to think clearly, sleep deeply, move slowly, and live quietly in a world designed to prevent all four.
たぶんこの文句もまた、大きなきっかけのひとつになっている。現代における贅沢とは、明晰に考えられること、深く眠れること、動作をゆっくりにできること、そして静かに暮らせること。これらすべてを妨げるように設計された世界において、この四つこそが贅沢なのだ。