母が使っていた部屋に布団を敷いてくれていた。本棚には『スクリーン』が並び、手塚治虫の『スーパーマン』評などが掲載されていてなかなかすごい。枕が変わると眠れないはずだったけれど、それよりも隣に奥さんがいるかどうかが大きいのだろう。日記を書き終えて、一緒にエーステの配信期限がくる映像を日付が変わる頃まで見ようと思っていたのに、そのままぐっすり寝こけてしまい、朝まで目が覚めなかった。二度寝して、九時前ようやく起きる。
朝食はパンにハムエッグ、サラダにバナナとヨーグルト。お腹いっぱい。昨晩からルービックキューブと格闘しており、解法を解説したサイトをみながらようやく全面揃えるが、さっぱり理屈がわからない。フィジットトイとしても優秀で、やっぱり面白い。何も見ずにぱぱっと揃えられるようになりたい。欲しいかもしれない。いや、欲しい。お礼を言って、辞す。
電車に乗って石川町へ。『声の文化と文字の文化』は今日で終わりそうだった。
(…)デフォーの〔小説の〕なかに現れる内省的な登場人物が俗世にかかわるしかたには、はっきりとカルヴィニズムを思わせるなにかがある。しかし、内省と、意識の内向化をますますおしすすめる傾向は、キリスト教的禁欲主義の全歴史を特徴づけるものでもある。その歴史のなかでのこうした傾向の強化は、明らかに書くことと結びついている。たとえば、聖アウグスティヌスの『告白』からリジューの聖テレーズ(1873-97)の『自伝』に見られるように。ワットに引用されているミラーとジョソソンによれば、「読み書きできるほとんどすべてのピューリタンは、日記のたぐいをつけていた」のである(Miller and Johnson 1938.p.461)。印刷の到来は、書くことによってつちかわれた内面への傾向をさらに強化した。印刷時代の到来は、プロテスタント側では、聖書の私的で個人的な解釈の擁護となってすぐに現れ、また、カトリック側では、罪の私秘的告白の頻繁化と、それにともなう良心の吟味への圧力となって現れた。書くことと印刷が、キリスト教的禁欲主義にあたえた影響はぜひとも研究されなければならない。
W-J・オング『声の文化と文字の文化』桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳(藤原書店) p.311-312
素朴な話だが、僕が公開で日記を書く理由の大きなものに、善き人間であるための規範として据えておくため、というのがある。なんというか、なるべくごきげんな日記を書き続けている程度には、自他を思い遣って気前よく振る舞えるようでいたいし、そのための規律としてこの日記の集積が機能すればよいと思っている。日記がそっけないときは、このような思惑が自律の愉悦ではなく、抑圧の重苦しさとして感じられているときだ。というか、最近はだいたいそうだ。日記の堆積が〈良心の吟味への圧力となって現れ〉ている。しんどいが、易きに流れてクソ野郎に堕すよりはマシだ。できることなら禁欲ではなく、享楽のほうにこの日記を傾けたいとは思うのだけれど。自律じたいは、自分でやれているいい気分な手応えを得られる方法でもある。
KAATで MANKAI STAGE『A3!』ACT3! 2025 のD公演。開場前に先日のチケットで衣装展を見る。こうして素明かりの下で見ると、生地のテクスチャーがずいぶんちゃちに見える。これが舞台上で強い照明に当たるとああもニュアンスが加わるのだから面白い。
開演して二秒で落涙。C公演の時点で、今回の劇中劇は『Guardians of the Galaxy』なんだな、とわかってはいたけれど、こうもストレートに咲也の居場所を巡る話を中心に持って来られると、どうにも。擬似家族もの、というか、ひとりぼっちの人間が自分なりの居場所を見つけ、愛着を育む話に弱い。フェイクをフィクションとして真に受け、より切実なフィクションを産むという構図も大好きで、とにかく今回の咲也のオリジンを巡る話はいちいち琴線に触れるし、なにより横田龍儀の演技がとてもよかった。この七年の積み重ねを一身に引き受けるパフォーマンス。一幕の大団円感がものすごく、もう二幕なしでも充分満足だよ、二幕でやる劇中劇が、一幕で配信として行われたメタフィクション劇を超えることはないよ、と思っていたら、ちゃんと二幕も面白くてさすがだった。
しかしやっぱり白眉は一幕クライマックスのメタフィクション劇で、舞台上で俳優たちによって演じられるキャラクターたちが「本人」として「演じる」なか、咲也だけは劇中劇のサク役を演じている。サクへの劇団員たちの励ましが、そのまま咲也へのエールに重なる。劇団員総出で行われるこの予告編劇が、俳優-キャラクター-キャラクターが演じる役の三項の来し方と重なり合い、将来の上演を約束して終幕するという、幾重にも美しく折り畳まれた嘘のレイヤー。咲也において、俳優-(俳優の演技)-キャラクター-(キャラクターの演技)-キャラクターが演じる役という、二重の媒介としての演技があり、咲也を支えるカンパニーのみんなは、俳優-(俳優の演技)-キャラクター-(キャラクターの演技)-キャラクターが演じる本人役という、これまた微妙にニュアンスの違う二重の演技がある。全体としては満開カンパニーという劇団と咲也との物語の喩であり、劇団という居場所を得た咲也が、俳優としてフィクションの役の生へと離陸していく物語でもある。エーステは、フィクションを介することでしか現前しえない生の実相があるということを、こうして記述するとややこしくてしかたがない複層性によって表現してみせている。その説得力は、目の前で嘘の実存を構築される演劇だからこそ真に迫るものがあるということを、しっかり理解している演出家の仕事のなせるものだと思う。ほんの束の間のシーンのためだけに、スーツに着替えるという選択の正しさ。僕は初めて、式典に正装していく理由がわかった。あれは、それまで見守ってきたこちらが、みんな立派になったんだね、と喜ぶためのものなのだ。
話すためには、もう一人の人間あるいは人びとを相手に話さなければならない。正気の人間なら、だれにともなく、ところかまわず話しかけながら森をさまよい歩きはしない。自分に話しかけるときですら、自分が二人の人間になったようなふりをしなければならない。なぜなら、どんな現実あるいはどんな空想〔された状況〕を相手に話していると思うかによって、つまり、どんな反応が返ってくると思うかによって、わたしの言うことは違ってくるからである。だからわたしは、おとなと小さな子どもに対して、まったくおなじメッセージを送るようなことはしない。話すには、話そうとしている相手の精神と、話しはじめるまえに、すでにある意味でコミュニケーションができていなければならない。そうしたコミュニケーションができるのは、〔相手との〕過去の関係をとおしてかもしれないし、また、視線を交わすことによってかもしれない。さらにまた、わたしと対話の相手を引き合わせてくれた第三者を知っているからかもしれない。あるいは、その他無数にあるやりかたのどれかによってかもしれない(〔そうしたことが可能なのは〕ことばは、ことば以外のものによってもつくられている一つの〔全体〕状況の一様相だからである)、つまり、わたしの発言がかかわりうる他人の精神を、わたしは〔話すまえに〕なんらかのかたちで感じとっていなければならない。人間的なコミュニケーションは、けっして一方向的なものではない。それは応答を要求するだけでなく、あらかじめ予想された応答によって、まさにその形式と内容においてかたちづくられているのである。
このことは、わたしが言うことに他人がどう応答するかを、わたしが確実に知っているということではない。そうではなく、たとえある漠然としたしかたでであっても、応答の可能な範囲を推測できていなくてはならないということである。わたしがメッセージをもって他人の精神のうちに入るには、あらかじめその他人の精神のうちになんらかのかたちで入っていなければならない。そしてその他人もまた、わたしの精神のうちに入っていなければならないのである。なにをことばで表現するにせよ、わたしは一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」もっていなければならない。このことは、人間的なコミュニケーションのもつ逆説である。コミュニケーションは間主観的 intersubjeclive である。メディア・モデルはそうではない。意識のこのようなはたらきを表わすのに適当などんなモデルも物理的な世界にはない。意識のこのはたらきは、すぐれて人間的なものであって、真の共同体を形成できる人間の能力を示している。そのような共同体を、人は、その内面において、そして間主観的に、他人と共有するのである。
コミュニケーションの「メディア」モデルがすすんで受け入れられるということは、書くことによって条件づけられた考えかたがそこにあることを示している。〔なぜなら〕まず第一に、声の文化と比べ、書くことにもとづく文化においては、話しは、とりわけ情報を伝えるものと考えられているからである。〔それに対し〕声の文化においては、話しは、〔情報を伝えるということより〕いっそう、演じ語り指向であり、なにかをだれかに対しておこなうやりかたの一つなのである。第二に、〔話されることばではなく〕書かれたテクストは、一見すると、一方向の情報の通路のように見えるからである。なぜなら、テクストが〔書かれて〕出現するとき、そこにはどんな現実の受け手(読み手や聞き手)もいないからである。しかしながら〔実は〕、話すときにも、また、書くときにも、なんらかの受け手は〔つねに〕いなければならない。さもないと、どんなテクストも生みだされることができないだろう。だから、現実の人びとから離れたところにいる書き手は、虚構の〔読み手や聞き手としての〕人や人びとをひねりだすのである。「書き手の聴衆はつねに虚構である」(Ong 1977, pp.54-81)、書き手にはふつう、どんな現実の受け手もいない(たとえたまたまいたとしても、メッセージを書くということ自体が、あたかもだれもそこにいないかのようにおこなわれることなのである。さもなければ、どうして書く必要があるだろう)、読者を虚構しなければならないということが、書くことをこんなにも困難なものにしている理由である。書くことの過程は複雑で、不確実性をはらんでいる。わたしは、自分がそのなかで書いている伝統を知らなくてはならない。もし望むなら、〔伝統のかわりに〕テクスト間の相互影響〔間テクスト性〕と言ってもいい。それを知ることによって、ある虚構された役割、つまり、現実の読者がそれを演じることができ、またすすんでそれを演じるような虚構された役割を、現実の読者のためにわたしは創造できるのである。目のまえにいない人びとの精神の内部をうかがうことは容易ではない。しかも、その大部分が、今後も会うことのない人びとであればなおさらのことである。しかし、もしそうした人びと〔読者〕が属している文学的伝統に、かれらとともに書き手が親しむなら、それも不可能ではない。わたしは、自分がいくらかでもそうした伝統をとらえるのに成功し、本書の読者の精神の内部をうかがうことができていればと思う。
同書 p.358-361
入り組んだ虚構への回路、複数化する媒介、互いに虚構される作者と鑑賞者。文字の発明以来、発話されるまで演者も観客もおらず、どちらも事後的にフィクショナルに成立する。だれも客席にいなかったとしても、声を出す、一文字書く、コミュニケーションという虚構は、そうして始まる。オングの洞察から四十年以上。僕はいま、インターネットによって文字が相互性を得て以降の事態を、声と文字とを意図的に混同することで語る/騙ることに興味がある。
中華街の端っこの喫茶アテネで一休み。馬車道のLA FIGLIA DEL PRESIDENTE はディナータイムは予約でいっぱいとのことだったけれど、十六時半ごろに行ってさくっと早めの夕食。贅沢サラダが本当に贅沢で美味。いわしの酸っぱいやつもいい感じ。マルゲリータもおいしい。かるくお酒も飲んで、満足。長々とした道のりを辿り、帰宅。日差しも強かったから、くたびれはて、寝落ち。