疲れがとれない。貯蔵可能な体力と気力の総量が、そもそもひとより少ないのではないかと疑っている。虚弱だとか頑強だとか以前に、稼働に必要なエネルギーを溜めこむ容量がすくないというイメージ。あれもこれもぜんぶ全力、というのは、短期的にせよ長期的にせよ、動き続けることができるひとのものいいだ。ちょっとやってちょっと疲れて、を繰り返すか、あるいは、がっとやって二日くらい潰すのとで、どちらが効率的か。ひとつのことをやるだけであれば後者の方が速いけれど、長いスパンで見れば二日のロスがけっこう痛い。慢性的に疲れていると判断力や根気が落ちるし、いらいらしやすくなる。認識にいちいち手間取り、そのくせせっかちになっているからじれったいのだ。加齢とともにこの傾向はより多くの割合の人間に訪れるはずだ。高齢化社会とは、辛抱が効かない人が増える社会であり、むしろ全体の幼稚性は高まると考えることもできる。さいきんよく思うのだけれど、現代において、もっとも困難なのは、枯れる、ということではないだろうか。社会構造が腐りかけ程度には熟しているからか、成熟まではわりあい若いうちからできる。ただし、ここでいう成熟とは欲望の偏差を研ぎ澄ます程度の意味しかない。いい年していつまでもギラギラしていることが是とされてしまうことが僕には不気味だ。洗練というのか摩耗というのか、とにかく欲望自体を少なく小さくする。ただ佇んでいる。そういう枯れかたを覚えている老人は稀だ。『ダゲール街の人々』を見た。ダゲレオタイプ、銀版写真、世界初の実用写真の発明家の名を冠した通りで商う人らをフィルムで撮影した映画。香水と肌着の小売店を営む老夫婦、夫は微笑みを絶やさず、妻はいまにも泣き出しそうな憂いを湛えた横顔で無口だがふとした瞬間に見せる笑顔がとても可愛い。妻は夕暮れ時になると決まって店の外に出たがるのだ、と夫は話す。出かけたいわけじゃない、どこにいくでもなく、ただ通りに出る、何か感覚的なことだ、ただ”外に出たい”と彼女のなかから湧き出てくるのだろう。彼女は店の外に出て、佇む。魔術師の手つきと重ね合わされ、マジカルな所作として映し出されるパン職人の手、自動車教習所の講義、理容師の鋏捌き、荒物店の会計、仕立て屋の針。あらゆるショットが面白く——バゲットは剥き出しのまま、肉はかるく紙で包んだだけでほいっと客に渡され、客もそのまま手に持って店を出ていく——、しかしいちばん素敵なのは、黙々と肉を切り、小銭を数え、商品を探す店員を前に、ただぼーっと待っている客たちの姿だ。空白の時間。ただ佇むほかない時間。待つ。通りで知己に出会い挨拶をする、すれ違う頃にはむっつりとした真顔に戻っている、その真顔で、客たちは静かに待っている。半世紀前の映画だ。この半世紀で、この映画が何気ないものとして撮る商店の時間は、とても贅沢な遅さであるかのように感じるまでになっている。存在を誇示するのでもなく、枯れ木のようにただ待つ。