昼から免許の更新の予定がある。センターへの道のりを検索すると、電車より自転車のほうが半分くらいの時間で済むようだったのでそうすることにした。朝は雨が降っていたけれどすぐ止んでよかった。掃除機をかけ、このまえ庭の裏側に貼った防草シートの隅に砂利を撒いておく。カーペットの毛玉をとる。猫と遊ぶ。『民のいない神』を読む。久しぶりに本を読んだ気がする。お昼に炒飯、自転車で出る。十分も走ると田んぼや林が広がって、田舎だ、と思う。夏休みの風景だ。草いきれが恋しくなったらこのへんまで走ってくればいいのだな、と知れてよい。旅行欲をほどよく発散できそうだった。
免許センターのオペレーション、発声、言葉の選択、身のこなしは、あらゆる階層の人びとを包摂することを旨としており、そうなると子供たちを指導する教室に似てくる。それにほとんど反射的にカチンとくる。粛々と済ませつつ、なめんな、と感じていたが、他の講習者の少ない人もおなじように苛立っており、反発を隠そうともしないので、それはそれで大人気ないと感じた。でもこの人たち、誕生日の周辺にいるんだよな、おめでと、とも思う。待ち時間に『怪談に至るまで』の新刊を読み終える。今作もよかった。自転車での移動は楽だったけれど汗だくではあり、帰宅するともう夕方で、ほんとうは本屋lighthouseに行きたかったけれど、一息ついていたらルドンが膝で寝始めて、夕食も作らないといけないし、と諦めてしまう。
家にいるのであれば、と話題の『花束みたいな恋をした』を見た。面白かった。菅田将暉と有村架純がかわいかった。まわりがみんな馬鹿に見える程度に幼稚さを残した時期の、陳腐な「他の人とは違う」感によってドライブする「恋愛」をやってる人はかわいいし、そういう瞬間を撮る映画は好き。あと別れ際がみっともない男を見るのも好きなので、欲張りセットだった。若さゆえに狭まった視野でもがいた懸命さを、本人たちが後から振り返って愛おしむ視点があることで、「恋愛」の経験っていいものだなあと素朴に思えるつくりになっていて、よかった(じじいの説教くせえなとも思った)。パズドラで終わるのかと思っていたから、ちゃんと本とか読めてそうな顔で終わってて嬉しかった。いや、菅田将暉は常に本は読んでいたのだけど。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は『花束』論でもあるのだけど、ここで紐解かれる読書史は、大半の人は昔から自己啓発本しか読んでこなかったというものであり、自己啓発本が「本を読む」からオミットされていた。要は賃労働規範とは「別の仕方」を三宅は小説に求めているのだけれど、それは別に映画でも音楽でも演劇でもよかった。三宅の批評性は、ただ素朴に作品を好きであるということは、それだけで日々のごきげんを支えうる、という地点に留まる点にこそ宿っているのだな、と映画を見てようやく思い至る。
この素朴で古典的でウェルメイドな恋愛映画が、いっとき特級呪物のような扱いを受けていたの、インターネットの面白くない悪ノリが、コロナ禍という状況下でみんなちょっと変になっちゃってる感じによって増幅した結果なのかなとも感じた。話のすじとしては『花束』のほうが好みだけれど、映画としては圧倒的に『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』の方が面白い。もともとはこちらを見て、「心の砂地」で関西で学生だった俺たちの映画だ、という話を聞いて、じゃあ関東の映画はやはり『花束』なのかと興味が湧いたのだけれど、そこはそうでもなかった。『花束』はかわいかった。『今日の空』はキモかった。どっちもよかった。映画なんだから、脚本じゃなくて演出の意図が露骨でうるさいほうが好き。『今日の空』は話としては虚無に近くて、だからこそただひたすら(やりすぎに近い)演出の面白さに集中させてくれるつくり。『花束』の演出は、脚本のできすぎた巧さにノイズを足し、ちょっとチープな印象へと下方調整するような、優れたバランス感覚がある。しゅっとしてるより、大盛りの方が好きだが、しかしどちらもなんとなく思い切れないのは自身の名古屋性だろうか。どっちもおいしい、と感じる。
