七時間を確保したうえで七時に起きる。満足げに食事を終えたルドンが呼びに来る声が聞こえてくるのを待ち、聞こえ、いそいそと起き出す。膝上で満足げにごろごろ喉を鳴らすなか、軽食とコーヒー。『民のいない神』を読む。ぜんぜん起きれず読み進められていないと思っていたけれど、もう百頁も残っていない。いよいよクライマックスという感があり、朝読書で断続的に読むよりも、いっそがっと一気読みしたくもなる。朝に読むのはもっとだらだらしたものを選ぶべきだな、と思う。でも、あまりに遅いものだとそれはそれで早起きの甲斐がない。面白過ぎると一気読みしてしまうし、退屈でも寝てしまう。続きが気になりつつ、中断が苦ではない、ほどよい面白さ。朝ドラの合理性に思い至る。気分がよく、猫を撫で、どんどん読んでいるとけっきょく遅刻の時間で、それでもなんとなくごきげんで穏やかだった。家を出て、郵便受けにまた税務署の手紙があり、引き返し、書類を用意して封筒に入れて、それじたいは慌ただしい対応なのだが、通勤としてはいよいよのんびりしていく。ようやく出発し、途中で投函する。もうこれで四度目の不備の指摘で、この前のバーベキューで斎藤哲也さんとお話しした際に、フリーランスにはならないのと問われて、確定申告のツッコミがもう三度も来ていると話すと、そりゃあたしかに向いていないねえ、と笑っていただけたのだけれど、ほんとうにそうだ。一方で、会社員だからこそ、不備があればフォローしてもらえるだろ、という甘ったれた目算を覚えてしまったという疑いもなくはない。社会システムは個人の認知を超えた複雑さを備えているが、そんな複雑さについていけない愚鈍な多数をも包摂しなければいけない。大半が思考停止してしまう煩雑な処理を、それでも進行しなければまわっていかないとなると、代行や補助の仕組みを充実させるほかない。そのようなものを勝手にあてにする太々しさ、自分がよくわかっていないことは多くの人も同じようにわかっていないだろうという図々しい予断、そういったものを組織人は肥大化させていくようになっている。システム設計者側からすれば、ユーザの無知や無思考、無配慮はおそろしいほどのものだ。けれども、それらをこそどこまで先回りして配慮できるかが仕事の出来不出来であったりする。この逆説は面白い。優秀な人たちの賢さを理解し、それらを前提としたスムーズさを志向とする設計者よりも、信じられないほどの愚鈍さやうっかりを予め織り込めるような、愚かさへの理解があるもののほうが重宝されることもある。代わりに考えること。システムの構造を読解する煩わしさを代行し、直観的な操作を実現することが設計やデザインの領域に求められるものであるとして、それは人々の暗愚を保守し増長させる手助けであるともいえる。立場が変われば、いやいや人がそこまで馬鹿なわけないだろ、と憤ることも多い。しかし、じっさい税務署の職員からすれば僕はかなり苛立たしい愚図ユーザであろう。
通勤の片道で『ミライの源氏物語』を読み始め、読み終える。さいきん本が読めていなくて落ち込んでいたから、こうやってするっと読み通せる本には助けられる気分。しかも楽しく本を読むフォームを点検し整える効用のある本だった。昼休みはいぬのせなか座の『座談会9』。おお、読めるぞ。カハタレの本番前後から調子を崩していた読書のリズム、復調まで二週間以上かかった。このような戻りの遅さに加齢を感じるけれど、ずっとこんな調子だった気もする。