きのう部屋着用のワンピースが届く。さっそく着てみて、快適だった。胸のところに切り返しがあるだけでフェミニンになるのが面白い。
朝、歩く速度を落としてみた。ひとりで歩くときも奥さんと歩く時の歩幅で進むのだ。いや、まあ、奥さんは歩くのが早いから、ふだんよりもちんたら歩いているだけか。それだけでのんびりした心持ちになる。都市部の速さ——これは素朴に文字通りの意味での人の所作の速度——を相対化できる。
制作と読解の両方で進行する、複雑さの調達コストを節約するノウハウの高度化と陳腐化。あらゆるものを送受信可能な情報に還元し、その組み合わせと配列の読解にだけ終始すること。既製のあれこれを食べて生成されるデータの複雑さは面白く、その参照元を紐解いていくのも楽しいけれど、それよりも、食べたものが読み解くまでもなく明らかにされているにもかかわらず、どうしてそうなるのかさっぱり理解できない変なアウトプットのほうがチャーミングなので好き。生成AIという既出データを端的に要約するための道具は、読解に知識や技術を要するような多少複雑な理路を、多くの人間が把握できる程度の大きさに加工するという作業を代行してくれる。生成AIという既出データを要約するための道具は、読解に知識や技術を要するような複雑な理路を、多くの人間が把握できる程度の大きさに加工する作業を代行してくれるのが便利なのであって、生成とかではない気もする。データが見つからないとき雑な嘘を出力しちゃうというのは別の話でふつうに瑕疵。「私」という、人間とテキストを掛け合わせたサイボーグを、変テコでかわいい何かを制作するジェネレータとして鍛えていくこと。いぬのせなか座や、代わりに読む人の諸作を読むとさいきんはそのような気分になる。
今日は『私たちはいつから「孤独」になったのか』。この数年は、むしろ孤独の喪失について考えてしまう。たぶん歳をとって居場所を得たから。本書における「孤独」とは孤立や疎外というニュアンスのあるlonelinessの訳語であり、独立の礎となるsolitudeとは区別されている。現代社会は前者が全面化し、後者のポジティブな孤独が塗りつぶされているというのは実感としてもよくわかる。というかそもそもlonelinessじたい、単に一人でいることonelinessを意味する語であったが、近代以降、身体的な痛みや惨めさと直結するようなものとして感受されるものに変質していったという指摘こそ本書の要だ。
インスタの広告で出てくるケロリンのサウナメガネが気になる。夜は楽しく飲んで企みごと。帰りの電車で歳をとる。