昨晩から敷き布団カバーをニトリの冷感シートに替えたのだけれど、これまでいきなり図書室にでかい寝床を展開するヒトへの警戒心を表明していた猫もまんざらではなさそうで、ヒトらも熟睡できて、久しぶりに朝起きることができた。ルドンは自動給餌器をちょいちょいといじっていて、そのたびに餌がころころ出てくるので、とうとうピッキングを覚えてしまったか、と焦って給餌器をとりあげて動作を確認するのだけれどよくわからない。朝は慌ただしく、しかし昨日のにんじんポタージュがあるので豊かな朝食。スープを大きいポーションで作って朝食にするというのはいいかもしれない。
電車で、なんかやっぱ本は読めないなあ、と引き続き困り、ポイエティークRADIOを聴く。今週はぶざまを晒す回で、だからこそだろう、すでに友人たちが実際の台本を見せてくれたり、構成台本の参考図書をおすすめしてくれたりしてくれて、助けてもらえる。嬉しい。僕はどうにも「上手にやる」ことへの思考が薄弱で、クオリティや結果でなく、楽しくやれるかどうか、楽しくやれる確率をどのように高めるか、という工夫にだけ興味がある。そのはずなのだが、どうにも目的手段図式の引力というのは強くて、ついつい求めてもいないゴールへの最短経路を優先し、楽しくなくなってしまう危険が常にある。本が読めないときも、それは本を読んだという結果だけを欲望しているときであり、そういう体調だと本は楽しくない。ただ読みたいという気分を迎えに行きたいが、待つほかないときもある。日記も面倒で、二日溜まっていたのを書き出して、そのままの勢いで書き出す当日の日記はたぶんそこそこ復調する。聴き返してみると今週の録音もけっこう面白かったことで気をよくしているところもある。やっぱり当人たちは面白いかもわからないまま無我夢中でもんどりうっているほうがいいのだろう。いや、普通にどうにもならない愚図愚図なことも多いのだけれど。
本が読めないからポッドキャストに張り切っているのだろうか。それとも社交への機運がそのままトークとかそういう興味に滲んできているのだろうか。おすすめしてもらった『トークの教室』をKindleで買って読み始める。するする読める。読めるなあ。ラジオの構成作家が書いているというのもあって、笑いもオチもなくていいということが執拗に繰り返されるのが印象的。そのプレッシャー、いまでも根強いんだろうか。とにかく台本はメモに留め、決して文章にしないことだという。豊富に挙げられる反面教師も役にたつ。長い、散漫、一方的、、小難しい語彙、小声、受け売り、身内話、自慢、昔話、前置きでネタバレ。だいたいやらかしてる。しかしいちばん重要なのは、自分にとっての既知が、他人にとっては素朴に未知であるということだろう。自明のことを自明のことではないものとして説明や描写をする、その足し引きの勘こそが大事。実演パートもおもしろく、構成は山本ぽてとさん。流石のお仕事。
「成長とは、愚痴のバリエーションが増えることである」
「消化できないものは発酵させろ」
散々な目にあって、生成AIに愚痴をこぼした。その後、ここまでのプロンプトから入力者をプロファイルするように指示し、そんな人物に宛てて生成させた格言。面白くはないが、いかにも自分が言いそうだなとは思った。