すくなくとも都会の通勤者にとって、現代社会の競争を煽られる感じや、利己的なものしかないような息苦しさの大半は、朝夜の駅を歩く人たちの余裕のない速さに由来しているように思う。まず歩くのが速い。あと、車内ではみな必死に席取りゲームをしてる。文字通り他人を押しのけて座りたい人がこの数年で増えている実感がある。こういうところに、嫌な時代だ、というような肌感覚の根拠がある。マスクをしなくなって、体臭に敏感になった鼻が苦しむ季節。くさいというのも、見ず知らずの他人への軽視や憎悪につながるものだ。通勤のたび、ひとらは少しずつ思いやりに欠けた、排外的な確信を深めていく。これはべつに電車でなくとも、運転マナーに苛立つドライバーにだってある程度いえることだろう。手段としてしかありえない移動、それも大勢がいちどに実行することで混雑する移動は、どうしたって他人への嫌悪を募らせる。自分とその仲間の他はすべて邪魔だな、と思わされる。そもそも今ひとらが向かっている数々の都市型労働は、大勢が集まるからこそ成立しているのだが。そんなことは日々のくたびれにとってはどうでもいいことだ。混んでるとムカつくし、座れないとしんどい。
さいきんは一本くらい逃しても構わないように家を出て、周りを苛立たせるかもしれないくらいのんびり歩くようにしていて、こういうことをあるていど相対化して見えるようになった。欲望の達成を悠然と遅らせること。食事の作法、会話の技術、あらゆる洗練はやせ我慢の美意識から始まり、いつしかその形式にのっとることで、がっつくよりも深かったり高かったりする満足を享受できるように個人を調律していく。スローの実践が禁欲的に見えるのははじめの一時だけで、すぐに何よりも享楽的な態度になる。ファストフードの刺激が単調に感じられ、出汁やスパイスの複雑な組み合わせを舌で探索する面白さのほうに傾いていくというようなこと。やさしくありたければ、遅らせることだ。
さいきんやたらと注意やスローについての本を読んでいたのは、おそらくこういう気分が元にある。僕は早口だ。気をつけていないと動きすぎるし、速くやりすぎる。すこしのことを、一個ずつ。そのように心がけていないと、あっという間に通勤中にありふれている感じの悪さのほうへと同化してしまう。
まずダ・リヴァやタンホイザーの礼法書の眼目に注意すれば気づくことだが、それは要するに食物をあわてて貪るなという戒めであり、いいかえれば食欲の満足を急ぐなという教訓であった。これは欲望の本質から見て消費者にとって的確な忠告であって、当時の享楽的な上層階級にも著者の意図した以上の納得を与えたものと想像できる。なぜなら別の機会に繰り返し書いたことだが、食欲に代表される人間の欲望には宿命的な限界があって、それを急いで満足させれば快楽は逓減し、やがて苦痛に変わるという逆説があるからである。消費の快楽は消費を続ける過程にしかなく、したがって満足を遅らせ過程をひき延ばすのが快楽を増す唯一の道だということは、誰の目にも明白だろう。一見、面倒な礼儀作法がじつは飽食の限界を先送りし、結果として歓楽を増大させることは、粗野な中世騎士たちにも容易にわかったにちがいない。ここでは彼らの生理的な欲望そのものが、より高次の欲望である虚栄心や名誉欲、他人の称賛にたいする欲求を下支えしていたはずなのである。
山崎正和『社交する人間』(中公文庫) p.143
さいきんスクリーンタイムがまた増加傾向にあり、よくなかった。なんだかんだでツイッターを見ちゃう。ブラウザ版からだとエゴサにノイズが入る——ブロックしたはずのあらゆる柿内さん——のが嫌で、けっきょくアプリを入れ直してしまったのが原因だ。アプリがあるとなんとなく開いて、なんとなく眺めてしまう。これはよくないので、エゴサの呪文を強化することにして、除外ワードに僕じゃない柿内さんらのフルネームや、関連しそうなワードを追加することで、ブラウザ版からも快適なエゴサを実施できるようになった。呪文構築の過程で、僕でない柿内さんらにずいぶん詳しくなった。というか、たぶんだいたいは「かきうち」さんで、僕だけ「かきない」というインチキな名前で、そのくせあらゆる柿内姓のアカウントを鬱陶しがってブロックしたり検索から除外したりしていて、本物たちを駆逐していく偽物という感じがする。
二十世紀には消費者が欲しいものを注文生産させるのは例外的な事例となり、同時に定価のない商品を値切るという長い風習も衰えた。そこでは欲望がいわば個人の内側からゆっくりと形成され、やがて商品の具体的なイメージへと収斂して行く過程が失われた。欲望が揺れと溢みをおびながら成長し、まだ存在しない商品、値段の決まっていない商品のまわりでたゆたう時間が排除された。いいかえればものを買うという行為は一種の投票行動に似てきたのであり、欲望は買うか買わないかを択一する固定的な意志へと姿を変えた。当然これに対応して、生産者は需要を数値化できる均質の量としてとらえ、その量の予測にもとづいて商品の生産量と投資の額を決めざるをえない。消費者の個別的な欲望の姿も見えないままに、孤独な予測と決断にしたがって行われる生産者の投資は、これまた一種の投票行動と呼ぶほかはないだろう。
同書 p.145-146
民主主義社会において、個人の意思表明は一票としてなされる。そこにおいて、条件付き賛成、部分否定、修正の提案などの躊躇いのニュアンスは反映されない。〈一気に明確で最終的な選択をくださなければならない〉。揺れ、滲む個人の意思は、投票行動においては、明確で不動の意志として機能してしまう。そのような話のあとに、特注品と既製品の数的逆転の過程が先の引用のように描かれる。単純だけれど、なにか注文して作ってもらいたいなと思う。本を自分で作るのだって、そのような喜びがあるからこそ楽しかったりする。そうだ、本作りたいな。今年はあと三冊出すのだった。