2025.07.01

この日記に読書記録を逐一つけなくなって久しい。というか、日々の日記はだらだらした記述が中心で、本の引用やそれに引っ張られた考えを走らせてみる日というのは稀になっている。このことをもって、本を読めなくなっている、と自分でも思ってしまいがちなのだが、おそらく実態としては逆で、もうすっかり本を読むことがなんでもないことになっているからこそ、わざわざ毎日書くほどのことと感じられなくなっている。食事や排泄、着替えなんかと同じで、いちいち書いても仕方がないとさえ思わない自明の行為。『プルーストを読む生活』のころは、本を読んでいるということだけが自分を自分でいい感じじゃんと思える根拠であり、だからこそ過剰に楽しい楽しいと読んでいる本について書いていたし、本を読んでいないと不安になった。そりゃそうだ。ぱっとしない日々のなかで、意識的に自分をいい感じの自分とするためのよすがとして読書という行為があったのだから。一生懸命でかわいいね、と思う。いまとなっては、自己肯定の方法としては読書というものを求めておらず、当時の僕がせこせこと演出していた食う寝る喋るようにして読んで書くというエートスがすっかり本当のエートスとして体得されたということなのだろう。自分は本を読む人間であるべきなんだ、という強迫観念が減退した結果、いまでは数日は平気で読まないでもいられる。いまでも読まない日が続くと調子を崩しはする。でもこれは、こんな自分ではダメなんだというような悲壮感ではなくなり、コーヒーを飲みそびれた朝と同じような生理的な苛立ちに似たものであり、要は中毒者の禁断症状のようなものでしかない。そのような気がしている。いや、まあこの書き方は欺瞞でもあり、じっさいは本を作ったことで書店主との関係ができてきたり、文芸誌から依頼が来たり、自分の愛好する文化にまつわるコミュニティに参入できているという手応えを得たからこそ、そこに俺も入れてくれ、とアピールする必要がなくなったということなんだろう。承認を得るまでの悪戦苦闘を、承認を得たあとで微笑ましく思い返すというのは醜悪な振る舞いである。そのような醜悪さをいつしか自分も獲得していることに苦い気持ちもあるし、いやいや、そういう醜悪さに蓋して見ないようにしていただけで、いつだってそうだった、それを直視できるようになるだけの余裕ができたのはよかったんじゃないの、と太々しく思いもする。

さいきんは夕食の記録のほうが多い気がするが、これは今の僕にとって自炊のほうが新鮮だからで、しかも意識的に習慣にしたいと考えているからだろう。これも当たり前になれば書き残される頻度は減るはず。

暑くて暑くて、帰り道は雨。帰宅したら無になってしまい、夕食を食べきれなかった。奥さんに丁寧に揉みほぐされて、うんともすんともいえず、寝た。明日には元気だといい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。