2025.08.09

午前中に通院に行く奥さんはいつもどおり自転車で出ていって、ちょうどそのころようやく起き出した僕は、あれこれと資料としての本や映像を、ほとんどたのしみとして浴びながら原稿のスケッチをDynalist に順不同で書き出していく。年に数度の原稿仕事は、この日記と違って断片から書き出していってあとから順序を入れ替え、膨らませ、削ってというように、行ったり来たり、散らかしては片付けるというような書き方をすることが増えてきたけれど、この日記は相変わらず頭から書き出して決して後戻りせずに、なんなら書き直さずに、破綻も脱線もそのままに愚直に進んでいくという書き方をしており、とはいえ、明確にコロナ禍以降の日記は、というよりもいつしか書かなくなった紙の日記を包含するようにしてといったほうが精確かもしれないけれど、あえて生活のログとしての側面を強調するようになってからは、どう書こうともただ記録じみて毎日の書く「私」を育成していくゲームのような側面はかなり薄らいで、というよりもこの日記も結局は二日後に書いているわけで毎日の毎日性は損なわれ、職人らのクリシェとしていうように、一日サボると取り返すのに数ヶ月かかる、サボらず毎日書けよ、というはなしで、しかし原稿仕事や労働文書など、何も書かない日というのはほんとうはないわけで、であればまあいいのかと思い直すわけにもやはりいかず、だらだらと後戻りできない即興として悪文をディスプレイに叩きつける手応えは、日記をこのように書くときにしかありえない。このような書き方しか知らず、というか知ろうともせず、即興的な一気通貫にしか面白さはないと思い詰めていた頃からすれば、納品を待つ商品を仕上げるような書き方に馴染んできた自分は信じがたく、そのような正攻法で面白くなれるような大層さなどないだろう、さっさと諦めて粗野を野趣と言い張る己に立ち戻りなよ、そうしたり顔で助言もしたくなるけれど、久しぶりに日記の方でこういう書き方をしてみればもはや手癖以外何も見出せず、断片を組み立てていくような書き振りの方がなにかしらの愉快を感じる可能性があるようなのだからこうした助言は嘘である。このようなかつて親しんだ書き振りがいまこうしてぶり返しているのは、日付からすれば明日みにいく『りすん』と、その帰り道に読んだ諏訪哲史の影響で、だからこの日には関係ない。今日は病院から汗だくで帰宅した奥さんからいつもどおり鉄のにおいがしていた。

奥さんと新宿に向かう道すがらは資料としての読書。関口さんに解説を依頼されている日記本を読んでいく。気持ちのいい読みっぷりで、時間と体力のほとんどをなにかを見て読むことに投入できるその豪快さにあてられて、僕もまたたくさん読めるような気分になってくる。それと同時に、この日記で産み出し養ってきた「私」——この日記においては「僕」なんだけれど——がすでに過去として相対化していた若さのただなかにいる「わたし」に慄きのようなものさえ感じる。こんなころからこんなに読んで、そんなのめっちゃ楽しいじゃん、このままだとどこまで楽しくなってしまうのだかしれない、というような、ほとんど意味不明な慄き。プロレスラーの巨体を眺めるときに似た圧倒がある。

シアターモリエールの席は前から二列目で、首が痛くならないか心配だった。古谷大和演出の『怪人21面相』。グリコ・森永事件を材にとった既製台本の上演で、エーステからは定本楓馬と輝馬と河合龍之介が出ている。この三人に章平という俳優が加わった四人芝居で、ネルケが主催しているっぽい。当日パンフレットに用語解説が載っていて親切で、しかもこれを読むとどんな展開になりそうか見当がついて期待が高まる。モリエールは初めてきたからふだんの舞台の作りを知らないけれど、舞台の主なアクトエリアはレベル上げがなされていて、その奥のおそらく普段はハケ裏としてパネルなんかで仕切られて見えない空間もそのまま抜けており、下手側には向かいのビルを見渡せる窓があり、これは新聞紙で覆われて夕方の日差しだけを通している。搬入口なのか楽屋口なのか、鉄扉も丸見えで、奥側中央にはダンボールが無造作に積まれている。ほとんどスケルトンの状態の舞台の荒涼とした雰囲気は、ひとめで廃墟を模しているのだとわかる。ふだん作り込むものを作り込まないことで清潔にミニマルに表現される退廃。これは俳優たちにまで一貫しており、八〇年代の男たちとしては清潔すぎるし、発声も洗練されすぎているのだけれど、その整頓されきっているのにじっさいには埃っぽくて蒸し暑いのだろうと確信できる舞台のつくりと矛盾しないその身体のありようは、汗ひとつかいていなくてもじっさいは汗みどろで額がテカり、真っ白なTシャツはほんとうは黄ばんでいるのだと思い込むことができる塩梅で、この調整が見事だと思った。とくに定本楓馬はすばらしい。韓国ノワール映画に出てきそうだった。ぜひみっともなく血反吐やよだれを吐きながら死ぬ役を見たい。戯曲自体もたいへん面白く、これは当時この事件をめぐってなされたあらゆる陰謀論、風評、素人推理のごった煮で、事件の受容史そのものを鵺のように丸呑みした作品であり、たとえばFGOのキャラクターや、『舞台刀剣乱舞』で諸説に逃がされた真田十勇士なんかを彷彿とさせもすることで、2.5次元作品との親和性も明示される。ありえたかもしれない、ありえない妄想を、臆面もなく物語として二次創作する手つき。おなじ劇作家の『三億円事件』の続編という側面もあるらしく、これもおなじ座組でやってほしいなあ。

SABOTEN——奥さんお気に入りの五丁目にある紅茶バー——に連れていってもらって、紅茶のカクテルと「夢みたいにおいしい」テキーラのジンジャーエール割りを飲む。夢みたいにおいしかった。観劇して、バーで感想を話しながら酔っ払う。すてきな休日だ。連休の新宿はろくでもないので、さっさと帰るが、気持ちよく酔っ払っていたのでうっかりしたらどこまでも深追いしかねなかった。夜道で日記本をほとんど読み終わりそうだったけれど、まだ残っている。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。