2025.08.11

天野天街が諏訪哲史の小説を戯曲にした『りすん』を見に横浜まで。横浜まではバスと電車で二時間かかる。やってらんないよな、と思いつつ、きょうは昨日の日記本読みの続きがあり、読み終え、さてどんな解説を書こうかと考えるより先に本を読みたい気持ちがむくむくと湧き上がり、そのままゲラのPDFをダウンロードしていたKindleで積んである本を整理して岡真理『記憶/物語』を読み始めてどんどん読んで半分くらいで元町中華街に着いた。電車の中ではほとんど過集中状態で読書しており、移動はまったく苦ではなかった。

外は嵐で、傘が何度もそっくり返った。雨はそこまで本降りでなかったから助かったけれどKAATまでの道のりは過酷。小さな奥さんは飛ばされそうだ。午前中のツイートで当日券が百枚は出せる状況と書かれていて心配だったけれど、じっさいはほとんど満席。とはいえみっしりと詰め込まれたスズナリに慣れていると、ゆったりした座席に違和感がある。開演前のアナウンスが始まり、きょうはこのアナウンスを何度聞くことになるかな、と奥さんと楽しみに話す。それで、始まった。録音された音声でト書きが読み上げられる。三方を客席に囲まれた舞台。それは白いカーテンで囲まれていて、薄ぼんやりと見える内側にはベッド、椅子が二脚、下手側に扉。三面あるカーテンに寸分のずれなく映像が投射される。その何気なさがすでにもの凄い。

終演後に著者本人から『アサッテの人』と『りすん』の文庫本を買って、少年王者舘のDVDも二枚買った。おすすめされた『夢+夜』と僕が初めて見た天野天街である『累』。大新園で揚げワンタンと五目焼きそば、麻婆茄子を食べて、悟空でちまきを買って、それから乗った帰りの電車で一気に読まれた『りすん』の書き出しは先に引いた通りで、そのまま立て続けに読まれ風呂で読み終えた『アサッテの人』では誰もいないエレベーターで淡々と奇行に走る「チューチップ男」に託されてこう書かれる。

《人知れず》という点が肝心なのだ。日常の定型を破調させるアサッテは、あくまで自己目的的に、私秘的に行われるものでなければならない。人に知られ、見られていることを意識としてしまったとき、その逸脱は作為的なものとなり、あくまで自らの破調であったアサッテは社会性や目的を帯びてしまい、まったくアサッテではなくなる。作為的なアサッテなど、まったくいやらしい。

難病に侵された妹と、看病する兄とのたわいもない会話劇。この、あまりにも定型な、観客の涙をこぼさせたいためにあえて自覚的にむく玉葱のようなあざとい臭さ。それでも、書かれた「運命」に従わざるを得ない俳優たちの演技のうそ寒さは、死んだ劇作家の闘病を投影せざるを得ない狭苦しい舞台上の病室とも互いに互いを喩えあい、陳腐に陳腐を、作為に作為を、多重録音のように重ねてハウリングしていく。それでもなお、作品は、小説の、演劇の、みずからの作為の枠外を志向してもがく。そのように戯曲が作為している。観客はいつしか、作中人物と共にこの作為からの逃れがたさに苛立ち、どうにかこの演劇という監獄を破壊し尽くしてくれと願う。お涙頂戴の定型になど陥らせてたまるものかと歯を食いしばる。それでもなおどうにも抗いがたい定型の果てに、不意に発せられるある音に、どばどばっと涙が溢れて仕方がなかった。けっきょくは、ドラマの重力に打ちのめされ、叩きつけられ、負け切った。それでも、この涙の洪水は、あえてむかれた玉葱の引き起こしたものではない。むかれきって玉葱が消えてしまったあとにのこされた、無意味な余白に塗り重ねられた無意味な音そのものが、意味よりも速く引っ張り出した情動によって流されたものだった。もちろんすぐに意味は追いついてくる。作為は遡及的に涙を作為へと意味づける。それでもなお、その音を聞き遂げる一瞬間だけは、たしかに意味を追い越して、ただ涙として溢れた涙の無意味さのコンマ数秒の持続は、作中のきょうだいが、書かれたもの=作為から束の間逃れえたことを証し立てていたのだと思いたい。

死から眺める生を描くと評されたこともあるらしい劇作家は、いつだって実世界にまみれた生の作為を相対化し、茶化しながら、懸命に生への抵抗を演じさせ続けた。そのような、それこそ必死の抵抗は、順当な終着点となりがちな死さえも似たような定型であると虚仮にすることで、ぎりぎりのところで自壊を避けてきたのだろう。この劇作家にとって、小説の外部へと抜け出すことで自らを作中人物として定型化する小説それ自体を否認しよういう無謀な抵抗を書き継ぐ小説家との出会いは、どれだけ心強いものだっただろう、などと想像するのもまた、アサッテをきょうへと押し込めるような無粋にすぎない。読まれていることを前提とした、作為にまみれた日記を書いている人間が今更何をいうかという話だけれど、僕のこの日記もまた、書かれる「僕」と書く主体とが、際限なく相互に内向し外向するほかない多重函に監禁された状態であることを自覚しながら、作為にまみれるほかない枠内で書かれていくほかないものだと考えている。日記で書き読まれることの膠着を打破できるとも思えないが、それでも打破しようと日々なにかしらの定型をおちょくってやってきたつもりだ。しかしもう多弁がすぎるだろう。これ以上無粋を重ねてしまうよりは、ふるさとを同じくする劇作家と小説家とが共作した芝居の、最後の最後の一音において、束の間でも垣間見ることのできたアサッテがあったというだけに留めておいて、あとは沈黙したほうがまだましだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。