ファイブ・パーセンターズ・ラップが最も影響力を持った、九〇年代という時代背景についても触れておかねばならない。この秘密結社の機械的な暗号主義をなぞるように、九〇年代はある種の「世界像の機械化」が極まったディケイドだった。つまり享楽的な八〇年代が終わり、ノストラダムスの大予言を筆頭に、黙示録じみた陰謀論が大手を振ったこのディケイドには、世界が一個の巨大な機械のように駆動し、その不気味な運命の歯車から逃れることはできない感覚がヒップホップ・シーンまで覆っていたのだ——機械と陰謀は語源が同じなのである。
後藤護『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社) p.288-289
きのう『マンボ・ジャンボ』が届いていて、悩みつつ持ってこなかったのが悔やまれる。『黒人音楽史』は行きの電車で終わってしまいそうだった。それはともかく、machinationという語を初めて見た。機械の名詞化としての陰謀。大規模言語モデルの台頭により、よりいっそう人間の知的営為は計算可能なものであるという「世界像の機械化」の極まりがまた再びやってきているように思えるし、そんななか「黙示録じみた陰謀論」が台頭しているのも確かだ。この一年、にわかに自分の加齢を実感するのだが、それは、かつて自分が生まれた九〇年代を、成熟した大人として再度やり直しているような感覚があるからなのではないか。二〇二〇年代を一九二〇年代と重ねる見方はずっとしてきたけれど、九〇年代の変奏としてみるのもまた面白い。じっさい、この数年というのは、社会を回す中心の世代に九〇年代生まれが参入してきたタイミングでもあるのだ。
さいきんはFワードの親類性が気になる。ファクトリー、ファクト、ファクター、フェイク、ファッション、フィギュール、フィクション。語源としては多少散っていそうなんだけれど、つくられたものという点でなんとなく共通するこれらの語彙群を精査したいような気持ち。つくりと騙り、その構成と装い。あいつの話としての歴史ではなく、おれの話としての神秘、というサン・ラの駄洒落。後藤はマニエリスムという語を、ホッケを参照しつつ、とにかく何でも繋げてしまう錬金術や魔術のような知的構成力と定義している。このような知性は、駄洒落にも通ずる。音が似ているからっていう一点突破で無理やり無関係な観念や具体物を指すシニフィアンを並列して繋げてしまう呪術的行為。あれとこれが似ているという中世的アナロジーで騙りをどこまでも誇張していく身振りは、たいへん愉快で好きだ。博覧強記の大法螺吹きこそ理想のあり方かもしれない。ぜんぶ忘れちゃうので博覧強記にはなれないのだが。
平井にある空き地さんかくにシャーク鮫さんと行く。きょうは、Steenzという十代向けメディアの催しで、夏の茶話会がひらかれていた。午後から編集メンバーおすすめの中国茶をふるまっていたようで、こういう、お酒を介さないコミュニケーションの場というのはいいよなー、と思う。さめない社交も、いつか素面デーを設けたい、などと考えていたら主催の人たちは飲みすぎて茶酔いしていたので笑えた。ほんとうに十代もいて、シャーク鮫さんのひとまわり以上年長の友人もやってきて、三十数年の年齢差がある座組で、それでも好きな音楽の話ではなぜだか最年少と最年長とがいちばん通じ合う瞬間があったりして、すごいなあ、いいなあ、とうれしかった。夜になって茶話会はおひらきで、そのあと大人たちは缶チューハイなどを飲み始める。しばらくは誰も帰らず、いい感じのおしゃべりは続く。夜も更けて、シャーク鮫さんと先輩と三人で、コンビニでお酒やつまみを買い足して、平井駅前の広場でもうちょっと飲む。広場にはトイレもあって、とてもよかった。外で飲むのが気持ちがいい季節になったな。こういうことをしていると、やはりスズキナオさんに会いたくなる。
