2025.09.12

ルドンが家に来てから十ヶ月くらいだろうか。この十ヶ月で、奥さんと暮らしだしてからの十年で家で発話した回数をゆうに超えた語がある。「かわいい」は、だいたい毎日奥さんにも言っていたから余裕で蓄積がある。その語とは、「うんち」である。帰宅する僕を迎えに来てくれる時、「うんちした?」と訊きながらトイレの確認をする。状態がいいのをしていると「うんちしたね」と褒める。していないと「今日うんちできた?」と心配する。奥さんにも「うんちしてた?」「いいうんちだったよ」「うんち、ちゃんとしてるかなあ」と報告や相談をする。毎日だ。毎日、本猫にもヒトにも、ルドンのうんち事情を問いかけ、気をかけて、話している。この十ヶ月で、もしかすると人生の「うんち」発話の総量さえも凌駕したかもしれない。それほど、日に三回四回は「うんち」と声に出している。猫を飼うとはそういうことだったのだ。

さめない社交の当日になって、なんだかとっても楽しみになってきた。何度でも懲りずに期待しつづける。そのためにあれこれやってみる。

退勤して高田馬場に向かう。到着してすぐ豆腐さんと来世さんに迂遠キャップにつっこまれる。なんてかいてあるんだ? 速達? 迂遠ですね。手段がまわりくどくて本質を外すさまとのことで、僕のことだと思ったんです。速達のだいたい逆にある言葉じゃん。開店と同時にぽつりぽつりといらっしゃる。シャーク鮫さんは労働で遅れるとのことで、最初の三十分くらいはひとりでまわす。序盤はちょうどカウンターが埋まるくらいの来客で、カウンターのあっち側に立ってなんとなくまわしていく。いい塩梅だった。七人だか八人がけのカウンターで、ふたつかみっつの会話の群れができあがっていく。それぞれにちょっと嘴を挟み、新しく人が来るとてきとうに紹介してどこかに入ってもらい、うまくはまらなそうだったら席替えを促したりしながらおしゃべりする。カウンターのこっち側——さっきの「あっち」は客から見た「あっち」で、この「こっち」は客を見る「こっち」だ——での振る舞いは楽しいな、と思う。注文とったり酒出したりはほぼできないが。立つ位置によって、役割が変わる。やはり店員の側に立たずに、客と同じ空間を回遊しながらその群れの統合や分離の攪拌をおこなうのはけっこう難しい。「こっち」にいれば、ある程度の介入が許される感じがあるし、それが無視されても奏功してもどっちでもいいというような無責任さもある。客と混じりながらこれをすると、どうしてもことの成否が自分の問題としてクる。ある程度空間の装置に徹するには立ち位置が大事。シャーク鮫さんが来て、場が華やぐ。この、鷹揚と構えていい空気を振る舞う所作、とてもいいな、と思う。僕にはない能力、というか体のさばきだ。ある程度群れが組み上がって、それぞれでおしゃべりがなされているな、とりあえず逸れている人はいなさそう、と判断して、中盤からはそれぞれの席を回っておしゃべりしたりもした。いつの間にかまた満席に近く、ひょええ、と思う。会場の温度も上がっていき、音が乱反射する。わいわいがやがやにぎにぎやかやか、というやつ。どうしても声を張らずには届かないような熱気を帯びてきて、さんざんnote で白けてもいい、黙ってもいい、と書いておきながら、けっきょくこうして大盛り上がりのパーティーになるのは詐欺ではないかとは思う。カウンターに引っ込んで豆腐さんと、けっきょく大盛況ですね、と囁き合う。まあ、これはこれで嬉しいんだけれど。ポッドキャスターのソファ席で、シャーク鮫さんと一緒になる。というか、前回は手分けしておのおののフィールドでもてなしていたのが、今回はわりあい場が自律しており、ふたりが二人で楽しんでいても大丈夫な感じがあった。迂遠キャプにつっこまれる。白すぎる。とにかく白い。白に黒刺繍はやばい。なんというか、右翼っぽさがある。たくさん笑って、はしゃいだ。ホストとしてそれでよかったかはやや微妙だが。二十三時を少し過ぎて閉店。まっすぐ帰っても家では二十五時。はー、くたびれた。楽しかったな。みんなも楽しかったらいいな。何度でもやってみよう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。