繰り返し首を縦に振ることというテーゼについて、ブランショが召喚されてマイクする。ラップについて考えることはいつしか読書論と韻を踏む。
ブランショは文学論において、「諾」を、読書の経験に本質的なものだとも書いていた。読書とは、世界において何か行動することでも、労働=作業することでもない。それは「受容し、承認し、「諾」と言うところの自由、「諾」と言うことしかできぬ自由」だとされる。読書とは「作品」への「滞在」であり、また「歓待」であり、根底的にそれに「諾」と答えることであり、そうすることでしかない。ここには、「entretien」と同じ作用を見出すことができる。読者は作品を否定することも、そこに何を付け加えることもせず、反復することしかしないのだが、その反復において作品は無限の差異へと開かれる。
反復的である「諾」にある自由や軽快さ。ブランショはそれを、作家が必然的に抱え込む暗く重い「孤独」と対照させる。それゆえ、「こうした意味では、読書は創造よりも積極的な、何ものをも生産しないにもかかわらず創造的なものである。それは決断の一翼を担っており、その軽快さと、貴任の不在と、純潔さとを持っている。それは何事をも行わず、しかもすべてが達成される」。
読書に根源的な肯定性、その軽さ、無垢=無罪、喜び。かくしてブランショは、読書に本質的な「諾」、反復=肯定をダンスの歓喜とさえ結びつけるだろう。
中村拓哉『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』(書肆侃侃房) p.176
「entretien」とは、相手が言ったことに何も付け加えず、ろくに展開もさせず、ほとんどそのまま繰り返すような対話のことだ。それは単なる反復にすぎない。〈言葉は何も変わっていないにもかかわらず、そこから彼は「無限に学んでさえいた」〉。ループするビートのように、受け取ったものを「諾」と頷き、そのまま繰り返すことが必然的に抱え込む微細な差異がうねりを生む。
ブランショのこの「諾」は、「一方でも他方でもなく、なく、なく」という〈どっちつかずの往復運動〉の継続によってつくられるリズムが確保するものだ。友/敵、是/非などの二者択一を迫られるように感じさせる技法が日常の言語実践にかんたんに入り込んでくる状況下で必要なのは、「どっちもどっち」とスカして安心するのではなく、「どちらでもない」という態度で議論の展開を中断させることなのではないか。そもそも二者択一しかないように見せかけてくるのはセールスの典型的な手口で、その選択自体が問題外であることの方が多い。
人とのコミュニケーションは、「あれかこれか」ではなく「ああでもないこうでもない」で成り立っている。決定を先延ばしにして、無限に「これではない」を積み重ねることで、なあなあに曖昧な領域を確保していく。そうやって居心地をつくる。「違い」を取り上げて、自らにとって「同じ」ものとは何かを知り、「違う」ものを「同じ」ものとぶつけることで両者を適合・還元させてより広範な「同じ」へと至るというようなヘーゲル弁証法の規定からどう逃れうるか。「違い」を不可触のものとして絶対化してしまうと、「違う」他者と関係できない。「同じ」を志向するのでもなく、「違い」を絶対化するのでもなく、「同じじゃないけどなんか似てるよね」という方途でなんとなく一緒にいること。これは、生身の人間同士が社交場で対面するような時には案外簡単なことで、黙っていればいいのだが、テキストを前提とした言葉を交わし始めると難しい。テキストコミュニケーションで「なんとなく」をやるのは、かなり高度な技術が要請されてしまう。どうしたって「同じ」か「違う」かの二項対立にパキッと分かれ、極端なポジションに偏りやすく、あいだの曖昧な領域でふわっと「一緒にいる」のが難しい。いかに冗長に散漫に書くかという文章術こそ、開発するべきなのかもしれないなーなどと考えていた。
