2025.09.23

同じ車両に8ちいかわくらいいて、ちいかわ許容量を超えたので叫び出します。見渡せばちいかわが街に溢れている。搾取構造のただなかで、向いていない資格の勉強をして、順応しきれない社会に怒るのでもなく、けなげに順応を試みる。虐げられながらも抵抗する方法も発想も持てない自らを「ちいさくてかわいい」ものとして肯定を試みるキャラクターがここまで流行ってるの、やっぱり不気味だ。

とはいえ、二十年前のちいかわは、こげぱん(失業者のやさぐれと冷笑)、たれぱんだ(だらっと続く日常を追認する無気力)、アフロ犬(自己責任論的ごきげんセルフケア)だったわけで、あんま変わらんのか……

しかし、こげぱんの斜に構えた態度は批評へ繋がりうるし、たれぱんだは「寝そべり族」だし、アフロ犬はルサンチマンへの抵抗になりうる、というように現状への抵抗や変革の方策へと発展する可能性を考えられる気もするし、じっさい自分のメンタリティはこげぱん、たれぱんだ、アフロ犬と連続性を感じることはできる。

「ちいさくてかわいい」に、従順さではない形に読み替えられる可能性が見出せないのが怖いんだろうな。僕はキャラクターというものに「いまの社会は何かがおかしい」とか「このままじゃいけない気がする」という気分や、「こうでありたい」という理想を投影するものだと考えているらしい。ちいかわは明らかに後者で、「ちいさくてかわいい」という理想が投影されていると感じているのだが、しかしそれは「どうせ支配や搾取されるのだから、せめて愛玩されたい」というような欲望に見える、あまりに卑屈だ。

Blueskyに以上の叫びを投稿したら、ちいかわはけっこう抵抗している、という論旨でYoutubeの考察動画が紹介されていたので見てみた。過去にちいかわ族と旧人類(鎧さん)の戦争があり、ちいかわ族の英雄のはたらきによって和平が実現したと推測する内容だった。仮にちいかわと鎧さんの戦争が過去にあったとして、ちいかわがかつて闘争の主体であったという根拠にはなるだろうが、現在において抵抗の主体であるとは言えない。戦後としての現在、ちいかわが二級市民として鎧さんに管理されてることを鑑みれば、ちいかわ側が敗けて鎧さんによる搾取構造ができあがったと考えるほうがまだ自然なのではないか。

そして、考察動画では平和のためにはさも当然のことであるとでもいうように看過されていたが、キメラ化したちいかわの討伐をちいかわが担うという構造自体がたいへん気持ちが悪い。暴徒化した同胞殺しを請け負っている自らのグロテスクさが、治安維持の名目であっさり不問とされてしまうの、厭すぎるだろう。キメラ化とは、被支配者であるちいかわの暴力性の発露としても読める。支配構造の安定化のためにキメラの討伐をちいかわに委託するというのは、植民地における分割統治そのものだ。そこに対する疑念や葛藤が見られない以上、ちいかわを抵抗の主体として捉えるのはやっぱり難しい気がする。

そもそも僕は『ちいかわ』という作品自体はふつうに面白いと思っている。ここまで書いてきたようなグロさは明らかにわかってやっていることだからだ。それゆえに優れているというのもわかるし、それゆえに嫌いなんだけど。その上で、僕がなによりも嫌悪しているのは、優れてグロい作品が、その皮肉の中核にある「ちいさくてかわいい」がために、キャラクターグッズとして猛然と消費され内容のグロさが雪崩のような勢いで呑みこまれていくという、どこまで悪趣味なジョークとしていいんだかわからない状況自体を嫌悪しているのだ。二年前にもポッドキャストで話したが、ちいかわが流行るようなこの社会が嫌いなのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。