何かの発言や作品を見て、自分にとって大事なことが考えられていない、と思うのは、自分を軽んじられているような経験だろう。けれども、もとの発話者/作者は受信者その人ではないので、受け手である自分とは生活状況、居住地の天気、収入、体調、思想、嗜好、美学あらゆる条件が異なるというのは当然のことだ。自分と同じように感じたり考えたりしていないと不満に思うのは人情だけれど、私的な感情をただそれだけを根拠に妥当性のある反証として提示する態度はあまりよろしくはない。そりゃこちらとあなたは違うだろうよ、としか言えない話を、こちらから見えているものと違うからよくないと文句をいっても、そりゃ違うだろうよ、としか言えない。違うことは間違いではない。むしろ間違いとは違うものを同じものと見なすことで起こるものだし、違うことと間違いとの違いを区別できないことで悪化するものだ。
毎日くたびれてお金も余裕がないというようなとき他人に親切にするというのは無理だし、好き好き超大好きな誰かに夢中になっているようなとき万物をその誰かに関連づけて考えてしまうことを止めるのも難しいだろう。つねに皆どこか偏った環境でどうかしており、別の仕方で偏ってどうかしている人に不満をもったり、自分とはちがうと理不尽に裏切られたようなさみしい気持ちになったりする。それはそれだけのことだ。その感情の波立ちは、個人の不可侵さを守るためには必要なことだけれど、誰かの私的な部分を侵していい根拠にはなるはずがない。
さいきん、学生時代にチンプンカンプンなりに触発されたポール・ド・マン『盲目と洞察』のことを思い出す。ひとがある洞察に至る時、その洞察そのものが盲目に支えられている。洞察は、自身の内にある齟齬や無根拠に盲目である限り洞察でありうる。あるいは、書き手自身は盲目であったところにこそ、その書き手の洞察は読み取られる。言葉というのはなにかを指示する記号にすぎず、比喩など言い回しを工夫してなにかを表そうとするとき、つねに言葉のあやに絡め取られ、別の何かへと誤った接続がなされてしまう。何かを書き/言い表すとき、そこに過不足がないことなどありえず、言い過ぎてしまったことの余剰こそが洞察として受け取られたり、言い足りなかったその不在こそが別の洞察の源泉となったりする。すでに干支が一周するくらい以前に格闘したあの本が、いまだに自分が本を読んだりひとと関わるさいの性向に影響を及ぼしている気がするのだけれど、いま書いたような解釈が合っているのか甚だ自信がないので、いつか読み返したい。
