長袖が少ないから、もう二着くらい買っておくべきだろうか、それともすぐに羽織りが必要なくらい寒くなるだろうかと思いながら家を出るときょうは汗ばむ陽気で、であれば今日は半袖にして、長袖を温存しておくべきだった。いや、こんなことを惜しむくらいならやはり買い足すべきだろう。ともかく陽射しは和らいで、お前を焼き殺す、みたいな迫力はなくなったので嬉しい。日傘もそこまで神経質にささなくてもよい。それに伴い、生活改善への活力も湧いてきて、腹筋ローラーだとか、ストレッチだとか、いろいろ整えたい気持ちがある。とはいえ、けさも大寝坊している。台風の影響か今週は毎朝起きられていない。早寝早起き規則正しいリズムを刻む。そういうことをこそ第一にやるべきだ。リズムがヨレると気分も落ち込みやすい。季節のおかげで生活を整える意志が折れていないから、これに乗じてハッピーなリズミカル起床を実現できるようにするべきだ。やるぞ。
今晩はJUNKYARD 1984に行くか、それとも映画に行くかで迷い始めたけれど、映画は明日でもいいわけで、でも明日家から出るのが面倒な気もするから、とりあえず先にチケットを予約してしまう。これで明日も家を出ざるをえない。今晩はロフトに行くことにした。というか、そもそもこれがなければ今日は出社を諦めていただろう。そのくらい起きられなかったから。
とにかく用事をつくって、自分を外に出すのが大事だ。家にいてもいいわけだが、気になりつつも億劫さゆえに見逃すようなことが重なると荒んでくるのもたしかだから、出不精だからこそ自分を追い込むべきなのだが、家にいたいので予約や約束というのが好きではない。そのくせこうして詰め込むのだから、自分で自分が恨めしくもある。それでも、そのほうが結果的にはよかろう。余計なお世話の独り相撲だ。エンハンス。もっとよくなるぞ、という意志。昔からニーチェにことを、なんかマッチョでキモい、としか思えていなかったけれど、もしかしたら今は読み時なのかもしれない。
繊細さや弱さというものが共感というか、あけすけに言えばアテンションの養分になってしまう状況が数年前からより顕著になっているという感覚がある。端的に「繊細さん」みたいな言葉が流行ったあたりからの居心地の悪さの話をしている。おそらくその反動として、がさつさや強さへの開き直りというか、力への意志がカウンター然として表明されるようになってきている。これは「ていねいな暮らし」がかつて有していたカウンター性を失って抑圧的に機能してしまうという反転とも似ている。そもそも繊細さや弱さを励ますというのは、それらがよくないことだという風潮や構造に対して居場所をどのように確保するかという抵抗の道具であったはずなのだが、いつしか他人からの配慮を強奪する武器のようになる場面が散見されるようになっていく。もちろん大勢としてはいまだに困らされることの方が多いだろうけれど、極端な例が悪目立ちすることでカウンター性よりも抑圧性が際立ち、本来の目的から遠ざかるということが起きてしまっていると見立てている。このように、持たざる立場からなされる価値転倒のレトリックが、抵抗の足掛かりではなく、動員の方法という性格に変容することで、むしろ既存の価値の保守の手法として盗用されていくということは、文化や政治の現場でずっと繰り返されていることでもある。延々と裏返り、裏返されを反復する不毛なルサンチマンではなく、正しい意味で、力への意志を取り戻すべきなような気がするのだけれど、このニーチェ理解が合っているのかもよくわからないので、ざっくりとでもさらっておきたい。面倒なので誰かに教えてもらって済ませたい。とにかく、被害者意識を募らせた方が得、みたいな風潮へのうんざりした気持ちが強い。できることならパワフルに健やかでいたい。陽気でがさつな力持ち、みたいな鈍感さを、ずっと鬱陶しく思ってきたけれど、むしろそうしたものを目指したほうがいい気がしてきている。とはいえ、それを露悪的にやりたいとも思えないし、そもそも弱く困っている人たちをいじめるようなやり方はありえない。静かに淡々と、自己目的的に力を意志すること。それをただやっかみ腐すようなルサンチマンは相手にせず、できることをやること。要は体力や気力の余裕をもって、ひとに親切にしようという、いつもの話になるわけだから、何も変わっちゃいない気もしてくる。
このまえ誰かがどこかで書いているのを見てなるほどと思ったのだけれど、僕たちの世代はネット言説によって同情というものを悪だと刷り込まれていることでこじれている部分があるかもしれないという。実際、僕は同情というものを過度に遠ざけてきた気がする。同情するなら金をくれ、というのは、一種の告発ではあるが、不毛なルサンチマンでもある。同情をそのように、独りよがりで実効性のないものとしてだけ切り捨ててしまった結果が、他者との関係が共感可能性によってだけ規定されるような現在の息苦しさだろう。いまいちど、共感ではなく、同情をフラットなものとして取り戻す練習をした方がいい気がする。共感も同情も、独りよがりで実効性のないもので似たようなものであるというのは簡単だが、どうもニュアンスが異なる。共に感じようとするのではなく、同じ情をもっているものだと思い込むこと。確かに両者ともに判断は独りよがりな思い込みに過ぎないのだが、前者は相手のように感じ取る自分のほうに軸足がある一方で、後者は相手の立場においてどんな情が湧くかというように軸が相手側に置かれているとはいえるかもしれない。
かわいそうだね、というのはかなりカチンとくるがさつさではあるのだが、そのような粗暴さがなければできない親切というものもある。個人のちんけな想像力が及ばない相手にも親切にしようとすれば、誠実な共感の試みよりも、迂闊な同情の行動のほうがまだましかもしれない。
退勤後、余裕があったので東中野のplatform3に寄ることができた。「選書イズラブ」というシャーク鮫さんと萌さんの企画目当てだったのだけど、穏やかな温もりのなかでひとりにさせてもらえるとてもいい本屋だった。未知と既知、親しみやすさと緊張感の塩梅にすぐれた棚を眺めながら、このままだと買いすぎるな、と思い、次来る時にもありそうな本、売れてもまた入りそうな本をばっさばさ落としてレジに挑んだのだけれど、けっきょくずっしりの本だ。なんだろう、SUNNY BOY BOOKS が閉じてから途方に暮れていた気持ちが、いくらかやわらいだ感じがする。まったく知らないまま過ごしていたので、企画があって嬉しい。住宅街を斜めにつっきって歩き新宿へと向かう。
JUNKYARD1984 “Keep learning and doing. vol.1”。JUNKYARD1984のやろうとしていることを、固有性を取り戻すための世代論の試みだと勝手に思っているのだけど、ゲストの炎上寺ルイコさんのお話はまさにそんな感じだった。個人的な来歴を語ることがそのまま時代の「生き証人」的でありつつそれだけに留まらない、後年の視点で「歴史」として定型化しがちな話からは零れ落ちる過剰や不足が透けて見えるものであったのがとてもよかった。
あとこれは本編とは関係ない私的な脱線なのだけど、自分らが「大人」の立場を引き受ける年齢になってきて、いまこの世代として「ぼくの好きな先生」として振る舞うとはどういうことだろうというのを考えてしまう。屈託なく愛だの夢だの言うのは無理なんだよなあ。小学生の時の「しょうらいの夢」、「4LDK」だったし。当時はこれをつましいものとして書いてたけど、これすらまじで夢感出てきちゃってるのも暗い。でも、せめて気前よく親切でありたいとは思う。大人が次代に贈れる言葉や理想って、愛だの夢だの以外に何があるんだろうな。
