2025.11.17

シャーク鮫さんがさっそく今週のポイエティークRADIOを聴いてくれて、愛の話だと書いてくれていた。僕はそれを「親切」とか「いい人間になる」という言い方をしていて、そのあたりのスタンスにも目配せしてくれているのが嬉しい。本来的に愛とは他へとこの身を放り出す気前のよさのことだと考えていて、つまりかなりフィジカルな実践なのだけど、どうも日本語の思考圏において、愛は内心とか内面のものだと捉えられがちだなー、と思ってなるべく使わないようにしているところがある。ただの連想だが、カート・ヴォネガットの”Love may fail, but courtesy will prevail”を「愛は負けるが、親切は勝つ」としたのは名翻訳だと思う。

極論いえば、大嫌いな相手にも親切にはできる。ヴォネガットのcourtesyというのは親切のほかにも丁寧とか礼儀とかそういうニュアンスもあるわけで、内心「クソが」と思いながらも感じよく振る舞うという勇敢さもあり、僕はそれを応援したい。

お互いに憎しみあっていても、最低限の礼節を保ち、共有する時空間をなるべくラブ的な感じのバイブスで満たす。そのような社交のマナーこそ、いま必要な気がしてる。トーンポリシングになりかねないから言い方むずいんだけど、怒るなということじゃないんだよ。怒るようなことがたくさんあって、それは当然怒る。でも憎んじゃいけない。憎しみは心身を蝕むから。そして、いつしか別の憎しみを生んでしまうから。酷い振る舞いを再生産しては、いつまで経っても酷いままだ。憎しみに対抗するための所作、憎しみに自らを明け渡さないための勇気のことをこそ「愛」と呼ぶのだと、最近読んでいる黒人神学の本から学んでいるところ。話が逸れたが、世の怒りの自己増殖に抗うために、愛とかはむずくても、とりあえず親切にしあっててラブリーな時空間をできるだけ作っていって、そっちのほうが楽しいかも?という雰囲気を増やしていきたいんだよなー、と考えている。そういえば、『ポーカー・フェイス』も寅さんも親切の物語なんだよな。

ところで、近年の風潮を概観していても感じることとして、もはやおおむね誰でも知っている共通の話題というのは政治だけになった。というかそういうことが朝日新聞のポッドキャスト「報談」でも言われていた。わからなくはないが、文化への趣味判断は常に細分化していくものだし、共通の生活基盤にかかわる意思決定以外ひろく共有できるものがないという状況は今に始まったことでもないような気もする。これにかかわるのかどうか微妙だが続けると、個人の実感としてはこの数年、具体的にはCOVID-19流行以降、とうとう僕もオンタイムかつリアルタイムの人間になってしまった、という体感が強い。ずっと生まれた時代を間違えたと思ってきたし、死んだ人の本にしか興味を持てないでいたところから、徐々に新刊を購うようになるというのは身も蓋もなく収入の変動による変化でもあるのだが、ニュースと日常生活との連続性に敏感になっていったのは、あきらかに感染症への恐怖から始まったことだと思う。いまの時代とはどんなもので、これからどうなっていくのか、どの流れが勝ち馬で、なにがダウントレンドなのか、そういうの、ぶっちゃけまじでどうでもいいわ、と思って、いやどうでもよすぎて思いさえしないで無関心でいられたが、いよいよそういうことに頓着するようになってきたのは、あとはメディア出演の影響もあるだろうな。文芸誌と深夜ラジオという、まあそこまで広範な露出というほどのものではないにせよ、オールドスクールなメディアへの出演と、そこでご一緒する人たちの優れたジャーナリズムに感化されて、僕もできることなら時代と寝たいという気持ちが刺激されないわけがない。しかしまあ、向いてないね、そういうのは。僕はつねに「いまさら」「それじゃない」であるし、そうでしかあれない。というか、基本的に批評というのは、つねにだいたい極端化して間違え続ける時代の気分というものから外れて、真顔の実感だけを述べるという態度であるはずで、やっぱり時評って変なんだよ、時評というのはやっちゃいけないことというか、やるなら徹底的に保守的にやるしかなかったはずだ。とにかくオンタイムで始めない、リアルタイムを追いかけないということが何よりの批評になる、つまり、一過性の気分に冷や水を浴びせるような私性の場になる。

ポッドキャストで僕が好きなのは個人製作でわりあいラフな雑談のもので、そこにあるのは、ある作品や状況を語るうえで定番のエピソードや基礎知識がないということの面白さだ。こんなことまで知っているんだ、よりも、こんなことすら知らないのか、という驚きこそ面白い。そこにこそ他者がいる。ひとはそれぞれに生活に忙しいから、大半のことに対してオンタイムでもリアルタイムでもない。そのようないい加減な、一見さんの素人感覚を手放さないように気をつけたい。ある界隈での常識レベルのものを知らないということは、無思考の証でもなければ、愚昧の結果でもない。知らないだけで考えていないわけではないのだ。ある特殊な環境下で最適化しすぎてしまった言語表現ではなく、たとえ乏しい語彙であれ、自身の固有性を手放さないような記述をこころがけることこそ肝腎である。たまたま隣り合った誰かに伝わるように、定型化されてしまった見方をほぐすような話をする。フレンドリーな撹乱。それがしたいのだった。思い出したぞ。見失っていた。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。