一ヶ月くらいまさかねと思い気がつかないふりをしてきたが、もう逃げ切れない。AirPodsから異音がするようになった。もう潮時なのだろう。いや、ついさっきまでは掃除をしたり、リセットしたりでもうすこし延命できるかもと考えていたけれど、奥さんに話すと、もう買い替え時だよ、と言われて、案外すんなりとそうだよな、と思えたのだ。五年くらい酷使していて、さいきんはバッテリーの持ちもだめになってきていた。ジーンズのポケットに入れっぱなしで洗濯をしてしまったこともあったが、それからも三年くらい元気に活躍してくれた。調べてみると最新モデルは思っていたよりは高くなかったし、もういいか。ほんとうは日記に愚痴愚痴と数年で買い替えなければいけないことへの怒りを書き連ねるつもりだったけれど、思い返せば返すほど、もう充分使い古した気がしてくる。
きのうは汗ばむほどの陽気だったけれどきょうは一転寒くて、ルドンがどかしても繰り返し膝に暖をとりにくる。トイレに行きたくてやっぱりどいてもらって仕事部屋に戻るといなくて、じゃあ一階かなと思って見にいくといなくて、心当たりを探してもいなくて、あれ、と不安になって寝室を見ると自分で布団をかけて眠っていた。夜はヒトらに布団の中に入れろと首を踏んづけてくるくせに自分でできるんじゃん。
『近代小説の表現機構』を読む。小説が小説として読まれるための「よそおい」「みぶり」を表現機構と名指し、〈場面に内在的に「語ること」と外在的な視点から「描くこと」の折衷〉をめざした試行錯誤の軌跡を端的に描き出していく。
ここで文学を構成する要素として、「言葉」「人間」「状況」という三つの因子を挙げておきたい。
いうまでもなく、「言葉」「人間」「状況」に関して、近代の人文学はそれぞれ独自の学問領域を切り開いてきた。たとえば「言葉」のメカニズムに関しては言語学的なアプローチがあり、「人間」に関しては、哲学や倫理学を通して実存的な問題を追究していくことが可能だろう。「状況」に関しては、歴史学、社会学をはじめとする、さまざまな社会科学の方法的蓄積がある。こうした中であえて文学研究の意義を問うのであるとするなら、実はこれらのいずれでもあっていずれでもないということ、すなわちその要請は、「言葉」「人間」「状況」相互の「あいだ」を一個の関係概念として読み解いていく方法論にこそかかっているのではあるまいか。
すべての出発点にまず「言葉」があり、言葉で構築された虚構世界への関心を抜きに文学は成り立たない。その上で、虚構世界の生成と享受に深くかかわる「人間」と「状況」の、その可変的な相互関係を問う発想にこそ、文学研究本来の面目があるように思われるのである。そしておそらくその際の要点は、相互関係のベクトルが他に双方向を話す矢印でなければならないという原則にあるといってよい。(…)
いつの時代にあってももっとも困難なのは、流行に惑わされず、相互変革的な関係から普遍的なるものをめざしていく中庸の精神なのであろう。少なくともこの半世紀の文学研究をとりまく状況は、矢印が一方向に偏ることをあえて省みず、みずからの方法的な特権を信じ続けてきた歴史であったように思われる。研究の個別の成果が、かえって作用と反作用の働く“場”を見えにくくしてきたのだとしたら、それははなはだ不幸な事態であったにちがいない。「言葉」を通して「人間」と「状況」との可変的な相互関係を問い返していくということ——こうした基本に立ち返ることが、実はいつの時代にあってももっとも困難な道なのである。
安藤宏『近代小説の表現機構』(ちくま学芸文庫)p.17-20
どうも最近、安易に「言葉」「人間」「状況」のいずれかにだけ還元するような発想に固執しがちであると感じているが、これは別に今に始まったことでも僕に限ったものでもなく、ひろく人類一般が陥りやすいバイアスなのだろうとも思う。
夕食は風邪気味の奥さんに合わせてきのうから出汁や生姜のきいたものを。咳は落ち着いてきたけれど歯肉炎が痛むと昨日から辛そうで、内科に行ったらこれは歯医者じゃなきゃと言われ、歯医者に行ったら免疫が落ちて親知らずが痛んでいるとのことだったらしい。いつだか、反対側の親知らずを抜いてしばらくほっぺたがぷくぷくに腫れていたことがあった。あれは可哀想でかわいかったな。またあの顔が見られるのかもしれない。
鳴き声が聞こえたので階段下の猫トイレの掃除をしようと思ったら、まだ最中だった。ごごご、ごめん!と慌てて声をかけて退散。一昔前の少年漫画でよくあった、ひとの着替えをうっかり見てしまったおぼこい少年のような反応を示してしまった。僕が二階に引っ込んだのだが、ルドンはめっちゃイカ耳で出てきて一階にいた奥さんが抗議されたとのこと。理不尽な人違い。
