ツイッター跡地で〈いまの日記・エッセイブームと高市政権が支持され参政党が伸展する情況は、どちらも「個人的で素朴な実感・体験」がベースにあるという意味で(半ば本気で)相似形だと思っている1〉というどなたかの投稿を引いて『文学+』の中沢忠之さんが〈そういう状況を前提にしつつ批判的に介入しているのが宮崎さんや柿内さんらのエッセイ批評ということでしょう。2〉と書いているのを見つけ、なんだかはじめて『随風』の連載にまともに読んでもらったようでほっとした。どうにも読まれている手応えがなく、けっきょくはエッセイの雑誌に寄稿しているという意味で「個人的で素朴な実感・体験」の動員的側面が強化されていく事態に加担しているだけなのではないかとだいぶ虚しくなっていたところだ。そもそも編集チームからさえまともな感想もらえていないし、寄稿のしがいに乏しく、だいぶ腐っていた。しかしこのような何気ない一言でけっこう持ち直すもので、次もちゃんと書こうという気になってきた。
市井の生の素朴な開示が、その伝達可能性を高める技術の向上と相まって、けっきょくは粗雑なナショナリズムへと回収されてしまいがちというのは当然の前提であり、それは今に始まったことでもない。たとえばいま読んでいる安藤宏『近代小説の表現機構』(ちくま学芸文庫)では、〈場面に内在的に「語ること」と外在的な視点から「描くこと」の折衷〉(七五頁)の試行錯誤の末に白樺派が獲得した〈自分〉という一人称の文体の成立過程をこう描く。
実はこれ(引用者註:白樺派の一人称および言文一致体の達成)は、大正期に「個人主義」が、まがりなりにも日本的な一つの結実の形をもたらしていくプロセスとも並行していた。「大正期教養主義」に象徴されるように、古今東西の古典を渉猟し、孤独な読書と思索、日記による内省を通して人格を陶治していく、というイメージが、白樺派、激石の弟子たちを中心に次第に定着していくことになる。
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彼らが信奉した「人格」という概念は、戦後民主主義の影響を受けた今日的な「個性」「自我」の概念とはかなりその性格を異にしている。当時この言葉はある種の生命思想ともいうべき信仰に裏打ちされており、「自己」内部の生命を凝視することが同時に自然、宇宙の普遍的真理に到達する唯一の手段である、という理念に支えられていた。大杉栄が「生の創造」(「近代思想」大3・1)において、〈社会の進化〉の基礎を〈自我の、個人的発意の、自由と創造〉に求めていた事実に象徴されるように、社会主義思想、自由主義思想の別を問わず、「個」に徹することによって普遍に突き抜けていこうとする発想は、まさしく時代に共通して流れる価値観でもあったわけである。前掲書 p.162-163
日本語文化圏において「私」への関心が全体主義的「自然」と接着してしまうという事態は、明治大正期の小説の黎明においてすでに宿命づけられた性格であったわけで、現代に特有なものではない。現在の日記・エッセイブームというのは、安藤がここで描き出そうとしている近代私小説の機構が成立していく過程の、改めての再演としてみるべきものである。ここで重要なのは、現状のブームをただの近代の再生産や、現状追認的な時代の写し鏡としてとらえるのではなく、むしろ近代小説の「こうであったかもしれない」オルタナティブの模索にもなりうるものとしてとらえることだ。この百年、市井の個人は、私小説の「私」から「八紘一宇」に至り、その反省として自由主義グローバル経済においてアトム化が進行し、近年の再群集化を準備するというプロセスを踏んできた(という粗い見立て)。日記・エッセイの実践は、もうすこしマシなものとしての百年の書き換えになりうる可能性を秘めている、と思いたいんだけど、かなり悲観してもいる。でも、自分なりにちゃちな介入を試みてはいるつもり。
とにかく僕は、今の世はこういう気分のようだが、そんなのはまっぴらごめんだ、とだけ言い続けている気がする。そのために今の世を見つめすぎていろいろ損ねているので、来年はもう古本だけ読んで過ごしたい。とはいえ、時代の気分とか知らねえよ、で済ませられないくらいには、個人の生と政治との密接に気がつけるようになってしまっている。やはり借金というか融資の経験は大きい気がする。自身と社会との接合部が顕わになってしまったようなところがある。
