2025.11.25

ツイッター跡地で〈いまの日記・エッセイブームと高市政権が支持され参政党が伸展する情況は、どちらも「個人的で素朴な実感・体験」がベースにあるという意味で(半ば本気で)相似形だと思っている1〉というどなたかの投稿を引いて『文学+』の中沢忠之さんが〈そういう状況を前提にしつつ批判的に介入しているのが宮崎さんや柿内さんらのエッセイ批評ということでしょう。2〉と書いているのを見つけ、なんだかはじめて『随風』の連載にまともに読んでもらったようでほっとした。どうにも読まれている手応えがなく、けっきょくはエッセイの雑誌に寄稿しているという意味で「個人的で素朴な実感・体験」の動員的側面が強化されていく事態に加担しているだけなのではないかとだいぶ虚しくなっていたところだ。そもそも編集チームからさえまともな感想もらえていないし、寄稿のしがいに乏しく、だいぶ腐っていた。しかしこのような何気ない一言でけっこう持ち直すもので、次もちゃんと書こうという気になってきた。

市井の生の素朴な開示が、その伝達可能性を高める技術の向上と相まって、けっきょくは粗雑なナショナリズムへと回収されてしまいがちというのは当然の前提であり、それは今に始まったことでもない。たとえばいま読んでいる安藤宏『近代小説の表現機構』(ちくま学芸文庫)では、〈場面に内在的に「語ること」と外在的な視点から「描くこと」の折衷〉(七五頁)の試行錯誤の末に白樺派が獲得した〈自分〉という一人称の文体の成立過程をこう描く。

日本語文化圏において「私」への関心が全体主義的「自然」と接着してしまうという事態は、明治大正期の小説の黎明においてすでに宿命づけられた性格であったわけで、現代に特有なものではない。現在の日記・エッセイブームというのは、安藤がここで描き出そうとしている近代私小説の機構が成立していく過程の、改めての再演としてみるべきものである。ここで重要なのは、現状のブームをただの近代の再生産や、現状追認的な時代の写し鏡としてとらえるのではなく、むしろ近代小説の「こうであったかもしれない」オルタナティブの模索にもなりうるものとしてとらえることだ。この百年、市井の個人は、私小説の「私」から「八紘一宇」に至り、その反省として自由主義グローバル経済においてアトム化が進行し、近年の再群集化を準備するというプロセスを踏んできた(という粗い見立て)。日記・エッセイの実践は、もうすこしマシなものとしての百年の書き換えになりうる可能性を秘めている、と思いたいんだけど、かなり悲観してもいる。でも、自分なりにちゃちな介入を試みてはいるつもり。

とにかく僕は、今の世はこういう気分のようだが、そんなのはまっぴらごめんだ、とだけ言い続けている気がする。そのために今の世を見つめすぎていろいろ損ねているので、来年はもう古本だけ読んで過ごしたい。とはいえ、時代の気分とか知らねえよ、で済ませられないくらいには、個人の生と政治との密接に気がつけるようになってしまっている。やはり借金というか融資の経験は大きい気がする。自身と社会との接合部が顕わになってしまったようなところがある。

  1. https://x.com/iskwshu/status/1992841916732608644?s=20 ↩︎
  2. https://x.com/sz6/status/1993138808242749622?s=20 ↩︎
柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。