「火を焚くZINE」略さんが、現代日本語圏では、知識を伝達するという「啓蒙」は「オタク語り」に擬態しないかぎり、取り合ってもらえないのではないかという見立てを示しており1面白い。けさのLobsterr Letter でピックされていたショーン・モナハンの「能力主義が文化を滅ぼす2」という記事のサマリとあわせて考えてみたい。
モナハンは、この混乱の原因を、過去15年ほどで「階級ベースの文化理解」から「消費者ベースの文化理解」へと静かに軸がずれたためだと分析している。かつて文化は、高・中・低という3層の「滝」として機能していた。上流の文化は文芸誌や美術館を通じて秩序と審美眼を、中流の文化はHBOやニューヨーク・タイムズのベストセラーで動力と厚みを、スティーヴン・キングやシットコムなどの下流の大衆文化は規模と勢いを担い、互いに連結しながら全体を循環させていた。加えて、これらは完全に別れていたわけではなく、郊外に住む中流層が年に一度メトロポリタン歌劇場に足を運んだり、ハイブロウの消費者もテレビを観るなど緩やかに混じり合っていた。
「vol.341 : Cognitive Effects」https://www.lobsterr.co/
このような「滝」の構造は、リーマンショック以後に機能不全に陥ったという。上流の文化とは庇護するパトロンありきのものであったが、出資の根拠が問われるようになり、結果として剥き出しの経済への対処を余儀なくされる。格差の極端化によって中流がやせ細って久しい。こうして「滝」のように上から下へという構図は失効し、大衆文化だけが残る。権威や伝統といった価値尺度は無効化し、残ったのはいかに金を稼げるかという能力主義だけである。
階級の無効化じたいは、民主主義の必然的なプロセスなのかもしれない。しかし、文化にとってそれはほんとうに望ましいものだったのだろうか。わからない。僕はわりあい素朴に「滝」への信を抱きながらここまでやってきてしまった。いま存在感を発揮するようなエリートたちが——そう、見かけはともかく階級的な差異は依然としてある——上流から下流への「啓蒙」が担ってきたものを水平的な「オタク語り」として生き長らえさせる道を模索しているとするならば、それはたしかにとても重要なことだとは思うのだが、どうにも撤退戦めいている。いまさら垂直的な関係を復古させようというのはあまりにもナンセンスな気もするのだけれど、たとえば批評のような散文の、フィクショナルな垂直関係を仮構したうえでそれを解体するようなところが今いちばん伝わりづらいところなのかもなあ、というようなことがいよいよ明確に把握できた感じはする。
『世界2026年1月号』に掲載された朱喜哲「いまこそ〈マジョリティの哲学〉を構想する」がとても面白かった。学生時代にドゥルーズをそのマイナー性への志向に惹かれてなんとなく読んでいた身として、自分がマジョリティであることを「恥辱」としてしか引き受けられず、そのために長らく行き詰まりを感じていたのだけれど、「そのうえでどうするか」というプラグマティックな読みの提示に励まされる。自主制作している本のことを《「ふつう」になじめないマジョリティ、ありふれた変わり者、陳腐でかけがえのない固有の生のための人文エッセイシリーズ》と銘打って久しいのだけれど、マジョリティの「恥辱」に居直ることなくやっていくにはどうすればいいか、という問いだけだとなかなか前に進められずにいた。「誇り」を引き受ける勇気が足りなかったのだなと気づかされた。というか、『会社員の哲学』の続編として書きあぐねている本の仮タイトル『マジョリティの哲学』だったんだけど、変えないとな。
『世界』と一緒に《アフリカ文学の愉楽》シリーズ既刊の『割れたガラス』と『夢遊の大地』も買う。国書刊行会の紹介文にはこうある。
小社の海外文学路線を切り拓いた《世界幻想文学大系》、のちのブームを決定づけた《ラテンアメリカ文学叢書》の刊行開始から約半世紀。 これまで日本で語られることの少なかった20世紀後半から現代までの芳醇なアフリカ文学の世界を本格的に紹介すべく、そして遠く離れた日本の読者が抱くアフリカへの印象をより豊かなものとすべく、《アフリカ文学の愉楽》が刊行開始!
こんなのすっごく楽しみじゃん。帰りの電車で『割れたガラス』をわくわく読み始める。
