僕はフィクションへの憧れがまったくなく、なんなら素朴になんかダサくて恥ずかしい、という感覚がある。特にセルフィッシュな個人の狭量さがそのまま作品世界のほぼすべてを統治するようなタイプの作品には「うげーっ」となる。なんだろう、ぜんぶ自分の話にしちゃうというか、他者を自分の側に取り込むことへの躊躇いのなさに対して生理的な嫌さがある。作品は作者より大きかったり底知れなかったりしててほしい。
作品未満のものであっても同じような態度だ。いちど書いた日記は創作物ではなくて、排泄物というか、もはや自分と関係のない他者という感覚が強く、だから不可侵だと感じる。おしゃべりをするときも、なるべく相手がどのような前提でどのような理路を通って話をしようとしているのかを探りたいと思っている。そのためにこそ、相手との差異が際立つように自分の話をしてみたりはするが、なるべく自分が思ってもいないことを聞きたい。とにかく対象をコントロール可能な立場がありうる、みたいな態度が無理みたいなのだ。
日々の制作という意味での日記の塗り重ねとしての作品という山本浩貴「日記と重力」の発想についてまた考える。ここでいう日記を僕はマチエールとして捉えているのだなと大谷能生『散文世界の散漫な散策』を通して『アンフォルメル以後』を再読しながら考えた。マチエールとは質量をもった素材みたいな意味だ。『アンフォルメル以後』はざっくり言えば、近代絵画というのは頭の中にあらかじめあるイメージをフォルムとして表現するものとしてあったけれど、現代絵画というのはむしろ、まずマチエールがあって、その具体的な質量をもった物質と、作者の身振りとのあいだの摩擦や抵抗を伴った「対話」として形成されていくというような論だ。表現するべきイメージが先行するのではなく、異なる他者との「対話」と同時に表れるものを見つめる。ここで現代絵画と対照される近代絵画のようなフィクション、つまり作者の意図や設計が先立っているように読めるフィクションをなんかダサくて恥ずかしいと思う感性が僕には根付いている。だからこそ、そうではなく素朴に近代的信をもてているような態度に出くわすと戸惑ってしまうのだと思う。マチエールとしての日記を、別様の作品として加工していくことへの違和はまったくないのだけれど、日記を日記のまま加工するということに意義を見出せないのも、このあたりに起因していそうだ。
有楽町でイッセー尾形の独り芝居を見て、ロイヤルホストで軽食をとる。ロイホは林檎の季節が至高。老境のイッセー尾形の演技は、その体が微妙にコントロールから逃れさるマチエールのように見える瞬間がままある。そこに凄味がある。若いころの映像を見ると、その演技はとにかく近代的というか、ものすごく繊細に制御された身振りだと感じるのだけれど、現代のイッセー尾形のもつれる舌や、安定しつつも時折不安を呼ぶ重心移動のようなほつれこそが演技を遂行する意志と格闘する物質として舞台上に現れるようだ。そのくせ上演される内容自体はばかばかしく、有楽町ホールの空調のせいか、あるいは気圧のせいか、僕も奥さんもすこしうつらうつらとしながら着席しており、だからすこし釈然としない気持ちでフライドポテトやパフェをつついていた。
