2025.12.23

十二月は二十日あたりで一気に、あれ、もう年末じゃんと気がつくことになる。それがもう二十三日だ。まったく追いつけていない。今週末は名古屋だが、何の手配もしていない。新幹線はいつも自由席に飛び乗るから相変わらずといえばそうだけれど、年の瀬は結構つらいのではないかといまさら心配になってきた、などと書きながらべつに空席情報を調べはしない。ここまで書いて不安になって調べるとこの時期はのぞみだけのようだが指定席だけになるそうで危なかった。とっておくべきだろう。調べてみるとほとんど運行がのぞみのようだった。電車で『サバルタンは語ることができるか』を読む。コンパクトだから行き帰りで読み終わるかもしれない。薄けりゃ速いというわけでもないのだが。『サバルタンは語ることができるか』は読みやすいわけではないのだけれど、もう散々あちこちで参照されているのを読んでいるから論旨を見失うこともなく、かといってちゃんと自力で拾えているとも思えず、知っている道筋をなぞるようにしか読めていないような気もする。観光名所をガイドされたとおりになぞるだけで現地を見たという証明書だけを発行するような読み方になっているような気もする。ちゃんと脇道に逸れて別の何かを密漁するほどの自在さはない。逸脱するにも力量が問われる。ガイドブック通りであることを確認するだけでも充分だったりする。そういう読書もあるし、あまりにも言及され過ぎてすっかり見た気になっている映画を見るときにも近しい感覚を得る。音楽の場合はそうはならず、これをどうしてああ記述しえたんだ?という驚きがあったりする。たぶん音楽の場合、僕はほとんどすべての歌の歌詞が聞き取れなくてただ音として聞いていることとも関係している気がする。すべてをナンセンスとして聴取する耳。

コンテクストから剥落するものを理解可能なコンテクスト上に乗せて記述してしまえば、けっきょく剥落してしまうものは剥落したまま不可視になるだけである。

ネットワークという網の比喩。誰もがネットワークの外側に逃れえないから、格子状に編まれた糸と糸の交差点にポジションを定位するような言説しかなしえないような気分になるが、じつは網には網目という空隙がたくさんあり、そのスカスカさのことを思い出そう、そして、そのように多孔性のものとして捉え返したネットワークの孔におけるスタンスこそが大事である。立ち位置から立ち姿へというのが『置き配的』の提言であった。もはや言っている人を見なくなったけれど、パンクとはアティチュードである、という文句の射程はじつはこういうところにこそあったのではないか。どこにおいてもいい佇まい。

すでにあるコンテクストへの違和感や馴染めなさ、端的に嘘臭さを嗅ぎ取りながらも、あえてそこへの順応を試みる。あるていどはノリへと同化しつつ、やはりどこかでノリが違う。嘘だとわかりきっているものをそれでも真剣に信じてもらえることを目指して嘘をつく。そのうえで、でもやっぱりこれはあまりにも嘘だよと暴露するような綻びをあちこちに用意しておく。そのような中途半端さに耐えることを僕は演技としてイメージしている。白けつつ真剣。まじめにやりつつさめている。そういうものとして演技を名指すと、結局どちらかの極端なポジションとして受け取られがちで、でもこのニュアンスをうまく言い表せないなあと悩んでいたのだけれど、たくろうの漫才とか名探偵津田とかで説明すれば説明コストをかなり節約できるのではないかと思えてきた。否応なく巻き込まれるとき、受動でも能動でもなく、戸惑いながらも全力で状況のただなかにいようとする。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。