2026.02.19

昨日の帰りがけに買って帰りの電車で読み始めた大谷能生『音と言葉のデジタリティ』がべらぼうに面白くて、きょうで一気に読み終えてしまった。そのままの勢いでざっと目を通した『〈ツイッター〉にとって美はなにか』は、やはり改めて熟読するべきと思われ、明日の道中で読むためにリュックに突っ込んだ。『歌というフィクション』から連なる大谷の仕事は、近年刊行された批評の中でもっとも刺激的な試みだと思っているので、『群像』の連載が始まったのが自分が時評を担当しており毎月家に文芸誌が届く最後の十二月号からだったのがとても悔しかった。そのくせ、刊行されていたことに先日まで気がつかなかったのだから間抜けだ。いや、今年はできるだけ新刊を買わずに読むべき本らと付き合っていくと決めていたのだから、情報を取りに行かないのは正しくて、ただこの本だけは例外的に買わざるをえなかったといったほうがいいだろう。だから、気がつけてよかった。『歌というフィクション』では音から、『〈ツイッター〉にとって美はなにか』では言葉のほうから出発しながらおおむね同じ方面へと模索された内容を、「デジタリティ」という、指折り/指でなぞって/指で叩いて、計測し、再現することができうる形での記述可能性を指示する造語であらためて統合していく。今回の主役はレコードと無声映画である。いずれもエジソンの発明を元にしつつ、エジソンの構想とはかけ離れた形で——別の名において創始されたものとして——結実した二〇世紀の二大メディアであるが、あえてエジソンにまで遡ることで、いまあるものとは別でありえた「十九世紀」のつづきとしての「二〇世紀」が現れてくる。ありえたはずの「二〇世紀」——映画がトーキーにならないままある——への志向が明らかになるにつれ、前作から一貫する大谷の射程がようやく腑に落ちてぐっとくる。ありえたはずの「二〇世紀」とは、人類最古のデジタルツールである言葉の専制から逃れ、複数の感覚がズレを伴ったまま複製されるような記法を手に入れた未来だ。複数の記法へとバラバラに気ままに散逸するようにして記録され伝達される感覚は、混乱したまま全体主義をすり抜けていく。複製された記録は、上演-再生されることで、レコードに吹き込まれた声と聴取して踊る体とが、ズレや訛りをもった個として出会い、類としてダンスする瞬間を待ち受ける。複製とは、一回限りの記号、いちどきりの出来事を反復するという矛盾した望みに向けた試みである。それは、この生が別の生との重なりにおいて見出すものへの期待だ。自他を引き裂き個を「私」として際立たせる文字とはべつの仕方で、ばらばらのまま類として自他を肯定する内面。それは選ばれなかった未然の「一九世紀」ではあるが、「二〇世紀」とともに、現代にまで伏在してはいるだろう。

その日いちにちを日記に書き残す、言葉はつねに「それでもあれでもなくこれである」という否定の形式であり、文字はささやかな死骸だから、書いたそばからその日は死ぬ。けれどもそのように残された文字列において、いつか誰かの一日が混線し、ある瞬間をまるごと肯定するフィルムやレコードという記号の記録媒体——ほんらい文字の対極に置かれるべきもの——にすこしでも近づくことを望んでいるのかもしれない。

まあ、まだこのように丸呑みにしただけでさっぱり消化できていないのだけれど、『〈ツイッター〉にとって美はなにか』から受け取ったものを使いこなせるようになってきたのも一年半くらいが経った最近になってからなのだから、これからまたあらためて大谷が見つめている「近代」について考えていきたい。げーっぷ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。