2026.02.20

夜中にうなされて目が覚めるとルドンが胸の上でもっちり眠っていて、こっちに向けたお尻が見事に顎の下に嵌まりこんでおり、ギプスをつけているときのように首が動かせないでいたので、やめてくれ、と懇願した。お尻をやさしく両の掌で包んで横にずらす。上がっていた顎を正常な位置に戻そうとする間もなく、またお尻が潜り込んでくる。なんでや。その話を朝寝坊気味の朝にしたら、奥さんがさっきトイレを掃除したんだけど、どっさりだったよ、それを教えたかったんじゃない?と返してきて、顎下の臭いが心配になる。この前電車で隣り合ったお兄さんがハムスターくさくてつらかったけど、いま自分も同じように猫くさいのかもしれないとも思う、と奥さんは言った。

なんか電車も事務所も妙に空いていたので不安になる。きょうなにかあった?

改めて読み返すと『音と言葉のデジタリティ』でぐっときたところはほとんどすでに書かれている。別の本によって触発された回路で再読すると、前は何を読んでいたんだよ、と呆れることはよくあるし、それは喜びだ。零貨店アカミミは「世の中の大したことないものの総量を増やす」というのを掲げているが、これは〈ただ単に存在していること。そのことだけで描かれる=表現される=再現される価値がある〉という〈無法なほどの平等性〉だといえなくもない。無法なほど、というところがいいね。

さて、昨日の時点では、無声映画にあってトーキーで失われた可能性についてあまり明確に書けないでいた。

まず大谷はヘーゲルを呼びつけて、かれの西洋文化においては「書き言葉」こそが歴史の「主体」となるための条件であったわけだ。無声映画は、画面に写真と字幕とが等価な映像として投影されるところに〈無法なほどの平等性〉があるのである。どういうことか。孫引きになるが、家に帰ったらちゃんと確認するので許してね。でもうちにあるの文庫版だから頁数ちがうかも——ゴダールの『映画史』の以下を参照するとわかりやすい。

無名の人物を移すショットの連続のあとに「こういう人だった」と字幕が入る。これは、文字なり言語なりと仲良しだということだという。この仲良しさは、かつて絵画が偉大な宗教や英雄といったテキストを描く芸術であった時代にクールベがただの田舎もんの葬式をでっかい絵に仰々しく描いてみせたさいに引き起こしたスキャンダルと同質の〈「書き言葉」の所有権を巡る階級闘争〉(一五八頁)であっただろう。けれども、トーキーの登場によって、映画は再び「書き言葉」を持たない人々の言語を声へと——話し言葉へと差し戻してしまった。

僕が素人なりに「現代思想」を愛好していたのって、たぶんこのような〈これまで文字として書かれてきた言葉=古い記号を、レコードに針を落とすようなかたちで体験出来るようになるための道筋を探る〉(一七五頁)ところが面白かったのだと思う。ともかく、近代にいたるまで西洋文化はモノ的な声や音を複製し、残しておくということを抑制し、とにかく文字という「書き言葉」にそうした役割を集中させてきた。

しかし、とうとうレコードが発明される。〈書き言葉をロゴス的な「声」にではなく、いま現在目の前で回転している円盤が鳴らしている音と同じように、ある物質に支えられた傷跡そのものとして読み取ること〉(一七五頁)への道筋がひらかれる。

ここに至り、一貫して骨子に据えられる本のひとつである時枝誠記『国語学原論』の〈場面〉、〈主体〉、〈素材〉が改めてオースティンの言語行為論に活用されることで、とうとう〈「トーキー時代」の哲学〉の全貌が明かされる。

なんのことはない。僕が『随風』の連載でいまエッセイや批評とはつまり「おしゃべり」なのであると主張しているのは、『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』の受け売りだったわけだ。いや、いちおう継承、のつもりではあるんだけど。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。