奥さんが養生で不在の間に、ルドンに話しかけることへの躊躇いがまったくなくなってしまい、んなーんなーと鳴かれるたびに、おはよう、どうしたの、今日は寒いね、あら大きなお口ありがとう、お口くちゃいねえ、食器洗うの面倒くさいよどうしよう、などとどんどん喋ってしまう。猫おじさんへの生成変化。
午後、役所に向かう奥さんを送り出す。小一時間で電話がかかってきて、全ての書類をテーブルの上に置きっぱなしだった。いつも奥さんを見送るときには、あれ持ったか、これはどうだとしつこく確認してはいはい持ったよと呆れられていたのに、今日に限って省略してしまったのが仇となった。必要な時に限ってお節介をせずに済ませてしまうのはなぜなのか。
『良き統治』と『ジェンダー・トラブル』を行き来しながら、ガンダムを見て、三月場所を流しっぱなしにしている。『良き統治』によれば、フランス革命期、立法権の優越が尊ばれ、司法権と執行権は二次的なものとされた。非人格的な法こそが、不偏で、客観的で、利害関係とは無縁のものであるからである。しかし、時代が進むにつれ法による統治という理想は、差し迫る決断と行動の必要に押されていき、今日までに至る執行権へと優位を譲ることになる。
このような、ルールがどうあれやっちゃえばそうなっちゃうやろがい、みたいな態度に、つねづねげんなりさせられている。かといって、原理原則の四角四面な適用だけでも行き詰まる。これを「話し言葉」と「書き言葉」の緊張関係として考えているのが最近だ。
まえもって連帯の「統一」を目標とするのにこだわる背景には、どのような代価を支払っても、団結こそが政治行動の前提条件だとみなす仮定がある。けれども統一の先物買いを必要とするこの種の政治とは、どのようなものなのか。おそらくそもそも連帯というのは、その内部の矛盾を認め、それはそのままにしながら政治行動をとるはずのものではないか。またおそらく対話による理解が引き受けなければならない事柄のひとつは、相違や亀裂や分裂や断片化を、しばしば苦痛をともなう民主化のプロセスのひとつとして受け入れることではないか。「対話」という概念そのものが文化によってまちまちであり、またこの概念は歴史的な制約も受けてきたので、対話している片方は会話が進行していると安心していても、他方は絶対にそうでないと思っているかもしれない。だから対話の可能性を条件づけ、制限づけている権力関係はどういうものかを、まずはじめに問わなければならない。さもなければ対話モデルは、語っている行為者がみな同じ権力位置にいて、何が「同意」で、何が「統一」かについて全員が同じ前提で話をし、また実際に、「同意」や「統一」こそが達成すべき目標だと仮定するようなリベラル・モデルのなかに、逆戻りしてしまう危険性をもつことになる。(…)
ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』竹村和子訳(青土社)p.42
ある前提を所与のものとして「同意」や「統一」のための法を読み書きすることへの志向と、そのような前提を撹乱するための話し言葉のパフォーマンスとを、どちらかに偏ることなくつねに両方やりつづけること。いまのポイエティークRADIOのロゴを作ったあたりから、ずっと同じようなことを考えているのだと思う。こういうのは手の方が早かったりする。
