木曜に吐き続け、金曜に眠り続け、週末は移動して活動し続けた。たった四日であるけれどふだんと異なるリズムで目まぐるしかった結果、ふだんづかいの日常のリズムから脱落してしまったような、なにをするにせよ時期を逸しているような、どこか他人事のような、そんな離人症めいた気分を伴ったまま過ごしている。このような自律や調律が必要なときこそ日記が際立つ。おそらく、日々が問題なく自走している時の日記は停滞するというか、毎日は、特記事項なしでつつがなく進んでいく。まずは部屋の掃除。それから熱いお湯に浸かる。実験的に家のお風呂をふだん三十九度のところ四十一度まで上げてさっと茹でのイメージで浸かってみた。茹でるには物足りず四十二度で追い焚きして、体の表面が赤らんでくるところで引き揚げる。やはり、いい感じに元気が湧く。
真木悠介『現代社会の存立構造』/大澤真幸『『現代社会の存立構造』を読む』を読んでいる。
人間が生存のために相対するものとして、非人間的なアクターの束としての自然と、ほかの人間たちの集合としての社会というものがある。ルソーのような夢想を援用して、「自然人」のようなものたちは自生する果物や木の実を気ままに食べて、好きな人たちと好きなようにやっていたとしよう。ここでは、欲望と行為が直結している。やりたいようにやって、すぐに享受する。「自然人」の外界との関係のありようは、他の動物と変わらない。物質代謝に遅延がない。
しかし、人間は労働することを発見する。畑を耕し作物を育てると、森に探しに行くよりももっとたくさんの食べ物が安定して手に入る。こりゃすごい。さらには、そうやって蓄えた作物をべつの物品と交換することさえできるようになる。もうなんでも手に入る。最高! しかし最高はつねに最低と抱き合わせで、これまでは行為即ち欲望の充足であったのに対し、労働とは欲望の充足の先延ばしでもある。つまり、いま食べたいのを我慢して種を植えるのだ。あるいは、着たい服を直接作るのではなく、食べ物が欲しいから交換手段として服を作るようになる。このような欲望の充足の先延ばしは、かつてはそれ自体が享受の喜びと直結していた行為から喜びが切り離される。労働は、いつかの享受のために我慢して行うしんどくつまらないものになる。このような先延ばしは、洪水や疫病のような災害や、侵略や略奪のような脅威を心配する必要もつれてくる。植えた種は実らないかもしれないし、作った服は売れないかもしれない。すぐさま嬉しいわけではない、いつかの嬉しさのために我慢して行っていることが、じっさいに報われる保証はないわけだ。
人間の対他関係は、このように即時的な享受ではなく、より複雑で大きな喜びを得るために発展して行った結果、労働や流通といった媒介なしにはありえなくなっていく。さらには、享受のための手段であったはずの媒介の方こそが目的になってしまうようなことさえありふれた。共同態ゲマインシャフトから集合態ゲゼルシャフトへという変化は、「それでよければそれでよい」という顔の見える範囲での無媒介で人格的な交換関係から、敵対さえしかねない他人同士の利害の絶え間ない調整としての市場を媒介とした非人格的な交換関係へのシフトである。これはしかし経済だけの話でもない。対他的な関係を媒介するのは「貨幣」だけではないのである。
人間とモノとの関係を媒介するのが「貨幣」である。経済の領域で、「貨幣」は価値を体現する。
人間とヒトとの関係を媒介するのが「国家」である。政治の領域で、「国家」は役割を体現する。
人間とコトバとの関係を媒介するのが「信」である。文化の領域で、「信」は意味を体現する。
困窮すると生活が苦しいだけでなく自分に価値がないような気分になる。承認が得られないと役割がなくて居場所がないような心持ちになる。なにも心沸き立ち踊るものを見つけられないでいると人生に意味なんかないと思えてくる。疎外にはそのような三つの面がある。だからお金だけあっても虚しいし、地位や名誉だけあっても息苦しいし、意味だけあってもさみしい。このようなモノ、ヒト、コトバとの関係から算出される自分はどうしたって満たされきらない。青木さんはこれらの疎外をうむ媒介を《他者ニーズ》といい、このような媒介物から離れた、生理感覚だけでとらえるもの——それは行為と享受のあいだに遅延がない「自然人」のありように近いだろう——を《自己ニーズ》と名指してみたのだと思う。行為即充足。そのような領域をもつことが大事なのであって、お金を稼いじゃいけないとか、人間関係があると不潔とか、カルチャーシーンでの卓越性の遊戯はしょうもないとか、そういう話はしていない。やること自体が嬉しくて楽しい、そういうものを見つけましょうねという話なのだと思う。
