髙木裕貴『カントの道徳的人間学 性格と社交の倫理学』を読み始める。序論で「社交(Gesellschaft)」とあって、社交はゲゼルシャフトの訳語なのかと面白い。共同態を意味するゲマインシャフトとの対比で置かれがちなゲゼルシャフトを社会ではなく社交と訳してみるだけで色々と触発されるところがある。
………だってわけわからないと思うの 私たちが勉強する本とかそんなに面白くないし しかも毎年同じ「ロミオとジュリエット」 …ごめんね先生相手にこんなこと言うなんて
気にしないで
ある男とある女が恋に落ちることがそんなに大事なの? 傑作だってわかってるけど「だから何よ?」って感じ
恋が革命だった時代もあったのよ 一番しちゃいけないことだったの ラブストーリーだからといって馬鹿にしちゃいけない……
Jillian Tamaki・Mariko Tamaki『GIRL』谷下孝訳(サンクチュアリ出版) p.32-33
恋愛が革命であるのは、同質性に基づく共同態を横断し、その安定を脅かすからだ。異なる共同態の構成員同士が社交し、ふたりきりで、あらたな単独性を有する共同態を構築しようと試みる。恋愛の革命が失敗に終わるのは、ふたりのあらたな共同態が生計のために市場社会と交渉するなかで、関係の単独性が社会の一般性へと溶解していってしまうからだ。市場原理を介して、恋する二人は陳腐な生活者としてあらためて共同態へとかえってゆく。
キネマ旬報シアターで『恋愛裁判』を見る。街に出たはいいけれどあまり映画の気分にならず、服や靴を眺めて時間ギリギリまで迷っていたのだけれど、クラファンの鑑賞券もあるし、予告編の上映が始まっているタイミングでチケットと引き換えて着席した。被写体の目線より下、狭い控え室で確保できる最大の距離をとりつつ、やや揺らめきながらアイドルたちを追いかけるドキュメンタリータッチのカメラの臨場感にあっという間に引きこまれた。被写体が対等に対話するシーンでは見上げる形でのロングショットが多用されるのだが、主人公ふたりが恋に落ちる場面は斜めに見下ろす場所にカメラが据えられている。大半の画面はこのようにカメラの位置の上下でリズムがつくられており、正面からのバストショットで証言者をとらえる後半の裁判のシーンに至るまで、カメラは人物らを単独で真ん中に据えて大きく映し出すことをほとんどしない。とにかく全身をフレームに収める。被写体がいま何に取り囲まれていて、誰がそばにいないのか、この映画で重視されるのは個人の顔ではなく、個人の全身をとりかこむ環境それ自体である。裁判のシーン以前にあるバストショットはほぼ必ず画面内に二重化された枠内に押し込められている。車の窓枠、配信を写し出す液晶画面のグリッド。これら画面上に重ねられたもうひとつの囲いのうち、前者は個人としての束の間の自由を、後者は共同態の一員としてその論理との対峙を成立させる条件を用意する環境である。
アイドルグループとそのファンという共同態と、交友関係という社交があり、後者が恋愛——ふたりだけの共同態の建設——へと変質していくにつれ、もともと属していた共同態の論理と馴染まない個人が立ち現れてくる。この個人はそれまで共同態の一員として自足していた自己に疑いを抱き、自らを取り囲む透明な囲いと衝突せざるを得ない。そして、裁判という市民社会の場においてかつて内属していた共同態を客体化し、争うことを余儀なくされる。しかし、だからといって、それまで自らを規定し、保護してきた共同態それ自体への愛着を捨て切れるわけでもないし、恋愛を通じて育んだ個人間の関係に執着する必然性があるわけでもない。ファンであろうと、恋人であろうと、他者と共同性を育むことの息苦しさと温かさが共在していることに変わりはない。不特定多数と共作するパフォーマンスと、ひとりと協同する恋愛。そのはざまで引き裂かれるとき、そのいずれもが帰着する共同態の一般性に還元しきれないまま、ひとり立つ個人が生成される。その個人の単独性、その人がほかならぬその人であることは、その人を取り囲む共同態によって形成されたものであることに変わりはない。共同態こそが、社交する個人を形づくる。そして社交は、共同態との不和をももたらしながら、個人の単独性をつくりあげてゆく。
個人同士が単独性をもつかけがえのないその人として向かい合う恋愛は、それまで内属していた共同態から人を引き剥がし、共同態の自明性を疑わせ、個人をひとりにする。いずれ恋するふたりは一緒に暮らし始め、これまでとは別様の共同態が生まれてくるであろう。けれども、すでにたったひとりの個人として生成されてしまったその人は、もはや隣で眠るその人のことも必要不可欠というわけではない。最終盤、ある決断を表明する主人公の視点は、とうとう外で風に吹かれる木々と自らとを隔てる窓自体をとらえる。つねに被写体たちを取り囲み、外と隔てつつ外からの視線を内在化させることを促す透明のガラス。透過する光を見て自足するのではなく、そこから見える景色からこの身を隔てているものそれ自体を見据えたとき、窓を開け放つこともできるはずだ。
